もし関羽以外のものが荊州を守っていたら?
2008.05.06 |Category …歴史・戦国
1 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/09/08(土) 09:44:56 ID:sifnyPMa0
劉備がもし関羽以外の者に荊州を任せていれば、
荊州を失わずに済んだだろうか?
それともやはり呉に荊州を奪われてしまう結果は
変わらなかっただろうか?
つづきを読む
2 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 09:46:16 ID:xRy6bexu0
そもそも劉備陣営に、関羽以外に、
荊州を任せられるほどの人物がいたかどうかだな。
3 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/09/08(土) 10:55:32 ID:Q6oeraLcO
孔明しかいないが
4 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 11:30:46 ID:vh7XIAOc0
>>2
張飛がいる。
信用度も関羽と同等だし(後に外戚になるから建前上は関羽以上か)
軍を率いた実績も後世から見たら関羽以上。
あと何気に土地を治める才覚も悪くは無かったみたいだね。
士大夫に対しては腰が低かったので結構上手くいったかもしれんw
結局、劉備は張飛はずっと手元に置くという選択をしたわけだけど・・・
>>3
諸葛亮が実績で頭角を現すのは入蜀以降で、
はっきり言って30才そこらのぺーぺーに人が付いて行くは思えん。魏延もしかり。
入蜀時に任せられるのは関張の2択で、その後漢中王僭称時の人事で変えられるとしても4択。
①関羽・・信用、実績、名声文句なしで留任
②張飛・・同上だが手元に残したい
③馬超・・名声は匹敵するが信用度は疑問だし、涼州専用の駒
④魏延・・・大抜擢で漢中
漢中は独自に侵攻することないので、ほぼ防衛時の専門だけど、
荊州は独自で侵攻することもあれば防衛もあるだろうし、一番重要なのは呉との力関係。
これらを満たす人が要る。
結局消去法的に関羽しかいなかったと思うよ。
あえて言えば、代役となりうるのは張飛だけ(その場合、関羽はずっと劉備の手元)。
5 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 11:35:32 ID:vbVBDhAeO
諸葛亮が守ればええんや。
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 11:47:49 ID:6Dvzb71r0
じゃあ、劉備が荊州に残る。
8 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 11:51:12 ID:ScFi1TyL0
無理だけどそれがいちばん
尊大な関羽も諸葛亮の言うことなら聞くし、諸葛亮も、
関羽の機嫌の取り方みたいなのをよくわかっていた
10 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 12:05:38 ID:5m12Gejk0
張飛だと、士大夫に格下に思われんか?
いや、関羽の様に見下すより、その方が上手くいく?
麋兄弟の弟の裏切りは、関羽と折り合いが悪かったからだよな。
悪い選択ではないかもしれない。
補佐は馬良になるだろうが、蜀はやはり駒が足りん。
…龐統の死とか痛いな…
麋芳士仁は陣中に留め置いて、廖化や馬良を江陵の守備に置く事は出来なかったのだろうか?
12 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 12:36:39 ID:YI8XawTI0
劉封+張飛(ついでに黄忠もつけてやるか)
関羽は上庸から漢中・荊州の支援。
劉備の養子・劉封なら名前負けもする可能性が少ない。
劉封も関羽・張飛に認められようと奮起するだろう。
後継者問題で禍根を残すかもしれないがこれがベストじゃない?
13 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/08(土) 12:40:26 ID:QZI8kqiB0
馬超は無理でしょ、荊州人士が納得しない。能力や信用度でいったら黄権も
候補だけど、こちらは関羽に変えるには名前に重みが足りないか。
>>11
失態があったので入れ替えて留守にしたという話がありますけどね。罰として
留守にするという人事は様々な意味で問題があるとおもうが。
信義を守って呉との交誼を固めていれば奪われなかっただろう。
外交ミスを詳しく
知る限りミスといえば劉備のではなく、関羽が孫権との姻戚話を蹴ったことくらいしか知らん。
・・・
荊州の領土半分明け渡した時点で呉は「盟友」ではなく「仮想敵」。
呉からしたら江陵は絶対に譲れない土地ということくらいは関羽も認識してたはず。
信義とか交誼とか、そういうレベルの話は通じないでしょ。
現に劉備自身が乗っ取りを成功させて、その時代に甘い事は通用しないと知らしめてる訳だし。
つまり劉備・関羽からすると呂蒙(陸遜)に如何にして侵攻させないかの抑止力が第一であり、
次に侵攻してきた時にどう対応するかが問題であって、
「関係をしっかり持てば呉は攻めてこない」という前提が間違ってると思う。
少なくとも江陵が呉の地になるまではね。
関羽の留守を預かった人達は呂蒙に対して戦意を見せなかったようだし、
関羽は総スカン喰らってたと思われ。
公安江陵だけでも関羽が退却するまで踏ん張る事が出来たら、
零陵武陵は取られるけど蜀への連絡路は絶たれないから別の話になったと思う。
まぁ、南郡だけだと荊州という飛び地で対呉対魏に対して勢力を維持できないだろうから、
荊州方面からの魏侵攻路は無くなるだろうけどね・・・
張飛なら留守が無抵抗で降伏という、総スカンを喰らうとは思わない。
・・・結局のところ関羽個人の問題より、呂蒙という相手が悪すぎたのが一番の敗因だね。
呂蒙は215年といい217年といい、電撃作戦が上手すぎる。
騙し打ちとはいえ、相手に対応を許さずキレイに目的を果たしてるのは完璧・・・
個人的には誰が守っていたかという戦術レベルより、
どうやれば呉に攻めさせない気を持たせられたかという戦略レベルの対応が必要だったと思う。
外交とは「○○はしてくれると思う(願望)」じゃなくて「○○はこうせざるを得ない」だから、
呉が背後を突かないだけのメリットを与える必要がある。
劉備としては荊州は魏への牽制路/侵攻路だから渡せない、
孫権としては荊州は(赤壁の報酬だから)本来呉が持ちえた土地だから欲しい。
劉備が出来ることは・・・
①襄陽ハン城を取ったら返します手形
(この場合関羽は襄陽~上庸~漢中~成都となりますます孤立する)
②関羽に北上を厳禁してその間に対呉への工作。
逆に言うと呉が攻めて来ないという確信(工作)ができるまで北上させない。
前者の場合は魏に近すぎることから全力で叩かれるだろうし、援軍はほぼ期待できない。
後者の場合は呂蒙の病気がそれに当たるので、
「病気なったから守備兵を前線に送った」が「病気になったのでほぼ全力で北上した」
になるだけで史実と同じ道になりそう・・・
遅レスごめん。仕事してたもんで。
呉を仮想敵国とすれば、蜀は二正面作戦を余儀なくされる。
当然、魏に対する関羽の正面兵力に余力がなくなり、
それならいっそ荊州を放棄したほうがマシな情勢になりかねない。
どうあっても呉とは友好関係でいるべきで、外交努力により
魏との共闘態勢を作りあげるべきとなる。
いっそ劉備みずからが荊州に戻り駐屯すべきだったかもね。
外交ミスは語弊があった。
正確には「外交努力が足りなかった」と言うべきでした。
でおkだろ。劉備の判断は正しかったさ
やはりシゲンの戦死が痛すぎる
諸葛亮がいたら・・・って書いてる奴は孔明がいたら何が違ったか具体的に説明してほしい
劉備がいたら・・・って書いてる奴はその間にどうやって獲ったばかりの蜀経営をするか説明(ry
それと呉と友好をって奴は、
217年に形式上だけど孫権が曹操の軍門に下って、
合肥-濡須ラインがほぼ暗黙の国境として定着し、
ついでに魯粛が死んで孫権が拡張するなら劉備の荊州しかない・・・
つまり国策として劉備に当たることがほぼ決定してる事をどうするのか書け。
戦略上、孫権を思いとどまらせる案はあるのか
戦術上、呂蒙を撃退する術はあるのか
○○なら~と羅列するだけなら議論が進まん
荊州を丸々返したら孫権も劉備と事を構える理由はない。
間違いなく魏+呉vs蜀から魏vs呉+蜀になる。
しかし、荊州は劉王奇から譲り受け、劉備自身は漢中王になるまでは
左将軍荊州刺史だったという大儀名分が
やすやすと譲りわたすほど軽くないだろうし、仮に(ありえないだろうけど)
「呉と争わないなら安い」としても、荊州士人がそれを許さないと思うよ。
この時点で劉備陣容の構成は関張みたいな最古参組・麋兄弟などの徐州組・馬兄弟や
孔明の荊州組・黄権や法正の益州組で、
序列では徐州以前の古参が随分と高いけど、大多数を占めたのが荊州と益州。
その両者のバランスをひっくり返すようなことは出来なかったはず。
さらにこれらの問題をどうにかして、決断しだいでは返還できたとしても
、劉備が襄陽(中原)への入り口を諦めるはずがない。
呉にその侵攻路を譲る(呉がそっちから攻めてくれる)など、
そんな甘い考えは一瞬でも持たなかったと思われ。
現に孫権は荊州南部を掌握後も、魏への侵攻は主に揚州から行ってるしね。
この時点で蜀の国策としての魏への侵攻は 漢中-長安 漢中-涼州-長安
江陵-襄陽-南陽 この三本立てが根幹をなしていたはず。
多分孫権などほとんどアテにしてない(←いいすぎだけど、
呉の性格上余計なリスクは犯さない国だと理解してたはず)。
長くなったので区切るけど、「蜀とったから返せ」との要求の答えは
「涼州取ったら返します^^;」だったはず・・・
少なくとも、漢中-長安の一本だと無理と認識してたのは間違いない。
39 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/09(日) 14:16:05 ID:9vaUTw080
じゃあ、>>38だったらどう対処するのが最善だと思うか、それも聞かせて。
俺には>>38の反論に対する別の策が考え付かないからさ。
40 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/09(日) 14:47:23 ID:253zcSwM0
>必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、
漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw
死守というか、>>38で書いたように何故劉備にとって荊州が譲れないかといえば、
長安と襄陽を同時に脅かすことが出来るということ。
だから、荊州を放棄するからには別の侵攻路が貰えるか、もしくは長安が確実に落とせ、
尚且つ長期保有できるという裏付けが必要になる。
どっちもあり得ない話(敢えて言えば・・・涼州を丸ごと手に入れれば近いのかな)なので、
その時点では文字通り死守するほかない。
っと、ここで私案だけど、
まず関羽の出兵を遅らせるべきだった、というのが一つ。
というのも漢中からの同時出兵でもなく、呉との関係がいいわけでもなく、
呂蒙が病気になる前で、情勢的に最悪のタイミングだったと思う。
呂蒙が急襲したというのはあくまで関羽の留守中に、しかも呂蒙が病気と信じて
守備兵を減らした後ということだから、関羽がいれば正面からくる可能性は限りなく低い。
仮に正面から来ても、恐らく3万と言われてる劉備の荊州方面の
総兵力があれば援軍が来るまで持ちこたえるだろうし、上手く行けば領土を失わないどころか、
漢中方面で曹操に動きがなければ215年に失った長沙と桂陽を取り戻せるかもしれない。
まぁこれは後知恵以外の何でもないけど、220年には呂蒙は死ぬ訳だしね。
関羽が独断で攻めたはずが無いので、
恐らく本拠地-漢中-上陽-襄陽-江陵-本拠地というリンクを作る劉備の腹だったんだろうけど、
甘すぎたと思う。
二正面作戦を強いられてる方面で敵片方への配慮を疎かにし、
その上ほぼ無援だったのだから、攻勢に出る場面では決してなかった。
というわけで、また長くなったけど、「襄陽攻めるな」「待て」ってのが取れる限り最善だったってのが持論です。
41 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/09(日) 15:08:33 ID:9vaUTw080
続きの途中に書き込んでしまってすまんかったです。
なるほど、関羽に侵攻指示を出すのをもう少し待っていれば、まだ状況は良かったかも知れないと。
この指示は恐らく諸葛亮によるものだろうから、これは諸葛亮の大きなミスと言えるね。
そうなると、漢中を獲ったまでは良いにしても、漢中王宣言は失敗だったのでは。
あの宣言は魏への反乱の火種にはなっただろうけど、
同時に呉に与えた衝撃や圧力も小さくなかったと思う。
もしあの宣言がなければ、呉の態度はもう少し軟化していたのでは?
と思うんだけど、これも甘い考えかな?あんまり自信ないw
それともう一つ。荊州を統治する大将として関羽を置くのは妥当だったのかな?
誰か他の人材を置いた方がいいとかあればそれも聞かせて欲しいです。
42 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/09/09(日) 15:13:50 ID:eXWlHs5F0
ふむ。
そうすると関羽は自分で反乱の兆しを撒いといて、
いざ反乱が起きたらそれらを援助せず見殺しにしろと?
たぶん、蜀は反魏から二度と信用されなくるね。
43 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/09(日) 15:40:28 ID:253zcSwM0
そう。全てが早過ぎた。
反乱を利用しに出兵して、その出兵を利用されて全てを失うくらいなら、
まだ見殺しにしたほうがマシ。
大体、曹仁をはじめとする本来の守備隊に加えて于禁と徐晃、
果ては夏侯惇まで動いていた魏に勝機というか、落としどころはどうみても無い。
魏から見たら襄陽と樊城は荊州から呉なり蜀なりが中原に出てきたときの
「蓋」なんだから譲るわけがない。
つまり単独で攻めたら魏の総兵力を相手しないといけないわけだし、
結果として徐晃軍で打ち止めになってる。
ようは負けても元の鞘に戻るだけという認識だったのだろうけど前にも書いた通り、
呉は既に帰順して(おまけに親劉備と言われてる魯粛が死んでる)
その矛先を劉備領荊州に向けてたのは217年の段階で明白だったはずだし、
「関羽が居ない」「守備兵も少ない」「関羽は撃退されて退却中」
こんな好条件がそろってる中で攻めて来ないと考えるほうがおかしい。
仮に襄陽と樊城の奪取に成功しており、失ったのは南郡と零陵武陵・・・
つまり領土だけで、残りの関羽軍は健在だったとしても
完全に補給も援軍も絶たれてる中で北から魏、南から呉という絶対的な
挟撃を防ぐ手立てはないと思う。
関羽にとって魏への出兵は漢中の劉備出兵とセットであり、
これによって関羽への圧力が減ることが唯一の襄陽奪取・維持の条件じゃないかな。
それが出来ないのに小事のため(決して小事ではないけど・・・例え、ね)に
大事を失うのは余りにも痛い。
漢中王はあまり呉の方針に影響は無いと思うよ。
何が呉を変えたのかというと
・合肥+守備軍が強すぎる(何度も痛い目にあってる)
・下?は地理上リスクが高すぎる
という風に、この方面は攻めるのには難しすぎるという結論に達した事。
逆に防衛には成功してるので両者で自然と国境線が出来上がってしまって、膠着してしまったこと。
それに加えて、赤壁後決して荊州南部をフリーで劉備に渡した訳じゃなかったこと。
特に江陵は全力で奪ってるのに、奪ったことによるメリットは劉備にしか行ってなく、
いくら大義名分が劉備にあるとはいえ荊州南部は(特に劉備が益州獲ったなら)呉の物であるという下地があったこと。
(現に劉備も「返します返します」と空手形だけど、何時かは呉へという負い目があったと思われw)
孫権から見たら、荊州北部方面の侵略から揚州を守るには夏口を、夏口と荊州南部を守るには江陵を、と江陵はどうみても最重要拠点とみなされてたはず。
長沙桂揚割譲後の呉の領土は、曹操から見ると劉備の江陵を落とせば揚州と荊州南部両方にナイフをつきつける格好になる。
劉備から見れば(その気はまるで無いだろうけど)いつでも取り返して孫権の荊州の足場を夏口だけにさせることが出来るように見えたと思う。
つまり、呉からすれば江陵が無いと赤壁からの努力はいつまでも不安定な訳で、
劉備が居座る限り衝突するのは必死だったということになる。
呉が軟化する可能性として考えられるのは、
・曹操が死ぬまで待って「魏が弱くなりました!攻めるチャンスです^^」と、矛先を魏に向けること
(現に孫権は死後襄陽を奪おうとしてる)
・涼州を本気で取りにかかって「あと少しで荊州返せますから待ってください!今度は本当に返します!」と話に信憑性を持たせ、
「あと少しで手に入るなら待とうかな」と、考えさせること
これくらいかな。
あと、関羽を配置したのは凄く妥当。
入蜀前だと、正式に漢から高位を授かってるのは劉備以外では
関羽の偏将軍と張飛の中郎将くらいで他は取るに足らない・・・
尚且つ対外的にもこの二名が飛びぬけて有名だった。
さらに軍権を握るに当たって実績と信用でこの二名に匹敵する者はいなかったこと。
これらを考えると、はっきり言って関羽か張飛しか選択肢がなかったはず。
漢中王になって勝手に人事できるようになったあとでも、劉備陣営で名実ともに関羽に伍するのは馬超と張飛しかいない。
結局、「関羽しかいなかった」が正解だと思う。
>誰をつけるか
普通の場合は越権や独断行為を監視する目付け役なんだろうけど、関羽の場合はそれが必要ない。
関羽に外交権などは当たり前に無かっただろうから、「付く人」というのはほぼ100%軍の役目・・・
法正のような策略家で尚且つ関羽も話を聞く人、樊城戦の見極めが出来た人かなぁ~
正直、思いつきません・・・
拠点の太守の(劉備からみて)信用度は「絶対裏切らないレベル」の麋芳だし、裏切りに近い投降をするだろうという前提で代えると後知恵になってしまう。
・・・守勢に強く、機転が効く・・・張既のような人物を守備に置いて行けるような状況だったら良かったと思う。
(黄権or法正+孔明or馬良)/2=?
三大勢力に囲まれた中で、巧みに勢力を維持なんてできるだろうか?
61 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/09/10(月) 15:14:19 ID:gEBdm4h70
経済面で勝るな。さらに南を支配できれば交易も見込める。
そして漢中を通らず蜀を滅亡させることすらできる。
だが襄陽は非常に後の時代の戦いを見ると北方面から守りにくい。
地形的な守備力という点では最弱だろう。全方面に面しているし。
荊州という土地は独立する土地じゃなく南朝政権に吸収される運命の
土地なんだよ。益州は土地の閉鎖性で独立が可能だが内部の人の上に
のっかる形に常になるな。
荊州は経済面と人材面では将来も充実してる地域だが独立は無理じゃないの
そして関羽の代わりは劉備本人とその幕僚がするべきだったのかもしれない
な。
漢中が安定してなくて益州も不安だろうが守るだけなら荊州よりは易しい。
ただ関羽は益州の複雑な利害関係を政治統治する能力は0だし李厳やなんか
に任せて益州人にパワーがシフトするのも困る。
諸葛亮と張飛魏延馬超あたりかな。
貧乏と過疎というボトルネックを解決するためには荊州は必須だから
歴戦の劉備本人がいれば関羽よりはマシじゃないかな。
どの道、北伐というのは南と北の肥沃さが逆転しない限り不可能という
ことが実証されてるわけだから結果的には守勢をメインにすべきだったな。
62 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/10(月) 15:16:34 ID:XaB7P0pD0
確か人口の3分の一以上が南陽郡に集中してるんじゃなかったっけ?
どっちにしろ魏呉の主力軍と渡り合える将帥は劉備しかいませんしね。
東西南北の軍事の要衝である荊州であればこそ、
やはり劉備みずからが駐屯するべきだったでしょうね。
余談ながら、何年か失念しましたが劉備が益州入りした直後
呉軍が南荊州に侵攻した事件がありましたが
その時には劉備みずからが蜀から荊州に下り呉軍と対峙してます。
で、諸葛兄弟の会談により湘水を境とする合意がなされますが
これも実は孫権が劉備軍…の圧力を勘案した妥協だったのかも知れませんね。
ヤル気なら交渉には応じず江陵まで一気に攻めたでしょうし。
蜀重視なら関羽は荊州残留だし、関羽以外に任せられる人材はいない。
荊州重視なら劉備自ら荊州に戻るべきだし、
そうなると蜀地内の安定は孔明の双肩にかかる。
漢中制覇から関羽の北上までの一連の流れは間違いではないし
兵勢から考えても一気に攻勢に出てよい局面。
やはり外交の不徹底が最大の敗因だろうね。
82 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/14(金) 18:42:15 ID:vM6w49Gf0
83 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/09/15(土) 00:32:25 ID:vQTEAqZQ0
張さんは育ったろ。呂布時に比べたら。
少なくとも、荊州脱出時点での仁王立ちとかなかったら
劉さんが死んでるか、少なくとも、軍事基盤を失ってる。
84 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/09/15(土) 14:48:18 ID:4l3LBCEe0
張飛は育ったというか、将器が開花したというべきかな?
それまで小部隊を指揮する程度の役目しかなく、
国士の器でありながらも将器を発揮できなかっただけでは?
関羽も同様で、荊州を任されてようやく中原に威を轟かす活躍が出来たんだと思う。
逆に言えば二人が劉備ではなく曹操を主君としていれば
早くからもっと活躍できていたかも知れない。
庶民のまま終わったかも知れないけどw
ネームバリュー(蜀での)で関張に匹敵しそう。君主の息子って事で。
馬超は北方の方が有用できるし、孔明法正は蜀科に必要だし、張飛あたり
上庸らへんにおいて、有事の際助けさせると。
張飛なんか危機になったらちゃんと飛んできそうだし。しかもあの頃の張飛は援軍に向いてそう
のプロ、三国時代の張遼や徐晃のような連中でもあの状況と国力で守備
と攻勢を両面で行うのは至難。
彼らに及ばない関羽にどうしてできただろう。
君主が首都にいるのは平穏な時くらいで、長期統一政権の皇帝ならまだ
しも非統一政権なんか緊急時には自ら前線へ出張る 親征は普通にやるし
やらざる得ない。危険だが士気上げには強力に有効。だが負けて捕虜に
なったりその後殺された皇帝もいる。
劉備がケイ州に駐屯しても彼の頭に攻勢の2文字がある以上敗北が約束
ずみ。 呉は揚州という過疎地帯をしょってる以上絶対にケイ州は奪回
する必要があるしその大義名分もある。
結論として関羽しかいないが仮に劉備が守っても同じ結果となる。
ケイ州を攻勢を掛けつつ守るというのは蜀の国力では所詮不可能であった。
・現実的であり可能性が高い
関羽
張飛
・可能だが問題点が多い
劉備
魏延
黄忠
・ほぼ不可能
馬超
趙雲李厳など
次にこのスレの話題の副趣旨であり語られている・・・
誰が太守などの地方行政長官であるべきか
誰が関羽軍に属する軍事関係者(部将・参謀・兵站等の後方支援←
これは太守の関わりも多い)であるべきか、という話題
・士仁/麋芳問題
・馬良/黄権/法正等の「参謀」問題
(馬良は知られている限り外交官であって軍務には疑問が大きい)
現実には趙累が所謂「軍師」
なおこのスレでは突発的に「法正」「諸葛亮」など大御所の名前が出るが、
一体どういう役でどのような任務を担うのかがまったく触れられないのは
厨レスとして無視される傾向が高い。
それを両立させるには独力で曹操の南征を撥ね返さなければならない。
しかし、曹操の非常識な用兵で江陵入り⇒荊南割拠に失敗した時点でもうアウト。
史実ではどっちの条件も中途半端なので、関羽の立ち回りがどうこう以前に
最初から勝算が成り立たない。
244 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/10/09(火) 13:50:25 ID:Io33eZ3aO
つまり、劉表の死後ただちに襄陽を占拠すべしとの孔明の献策を
採用しなかった時点でアウトって事でしょうか?
245 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/10/09(火) 14:56:07 ID:uNXcRCoj0
江夏は劉備シンパといわれる劉キだから、それなりの目算はあったようだ。
んでも劉備は勝てないと見込んだし、実際に逃げ出して成功してるのでなんともいえん・・・
そのIFを発展させると
襄樊を中心とした一帯を制圧して曹操軍と対峙する
同時に江夏の劉キを劉表後任の荊州牧として祭り上げて自勢力に引き込む
そして孫権に援軍を要請する(史実と違うのは戦闘の主体は劉備軍)
南郡の下半分と荊南四郡は史実通り曹操に切り崩されて掌握はほぼ無理だろう
もしかして孫権が欲を出すかもしれない
いずれにしても
曹操を撃退して
孫権との折り合いを上手くして
混乱の荊州南部を掌握する
という滅茶苦茶ハードルが高い境遇になってしまうからな・・・
となると、結局劉備のその時点でのクーデターは成功しないから逃げようという
判断はベターだった、と。
なにせ逃げ込んだら
孫権が戦って撃退してくれた
孫権も最大の危機なので唯一の協力者である劉備とは運命共同体になるしかなかった
劉備は混乱の四郡を掌握するだけでよかった
↑たいしたもんだよ。ここが劉備の凄いところというか曹操が唯一
自分と互角の人であると認めた所以と思う。
この時点で10年後の問題を考えられる奴なんて神しかいないよw
246 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/10/09(火) 16:32:39 ID:WOpKGipr0
趙雲は当時はそれほどの地位にはまだないから、
みんなが従わないんじゃないか。
仕方ないことだろうけど。
関羽以外の誰に荊州を任せるのが良かったか想像する前提の話として
関羽が荊州でどんな権限があったかをまず明らかにせんとイカンと思うのよ
関羽が荊州で歴任したのは襄陽太守・董督荊州事・假節鉞
最期の何ヶ月か前にやっと假節鉞として軍事権を委任される訳だが
これだけで荊州を治められたとはちょっと考え難い
史料を逸脱した想像は避けるべきだが、孔明以下の諸将が蜀攻めに呼ばれた段階で
関羽に荊州での相当広い行政権が委任されたと考えた方がいいんじゃないか
呉との外交権込みという事もあったかも知れない
そういう権限に見合う人材として関羽以外に誰が考えられたかという問題だと思う
あるかどうかも分からん権限の存在を前提にした問題提起で甚だ収まりが悪いが
もともとIF想像の世界だからご勘弁を
272 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2007/10/19(金) 15:17:11 ID:tgucPykAO
自分は以前から「適任は劉備」だと主張してきた者です。
とはいえ、占領直後の漢中、益州から劉備がとんぼ返りするのも
実際問題としては難しい気もしています。
そうなるとやはり関羽しかいないのかも知れませんね。
>>271氏の推測どおり、関羽が荊州における
ほぼ独裁可能な権限を与えられているとすれば、
その地位は余人には就かせられるものではなく
必然的に劉備、関羽、張飛のいずれかになります。
その中で張飛を関羽に代わらせる事は関羽に恥辱となりますし
関羽を敬愛する張飛も受けないでしょう。
やはり関羽しかいない、それが結論となりますね。
(幽州からついていかなかった)のがいたいよな。
成人した息子がいればよかったのだろうけど、これは放浪のツケか。
1
かっこいい議論だな