信長の軍師って?
2008.05.04 |Category …歴史・戦国
1 :日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:50:49
本人のひらめきで動いたの。
いるとすれば誰になるのか。どんな策戦があったのか。
家康や信玄などの軍師参謀は比較的わかるけど
2 :日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:59:01
軍師がいないから信長なんだよ!
でも政秀寺の沢彦宋恩とか、師はいたようだ。
つづきを読む
4 :日本@名無史さん:2007/10/07(日) 16:22:25
戦場では、光秀や細川藤孝の意見くらいは聞いたかもしれない。
信長以外で、孫子とか戦国策とか読んでそうな教養のある人って信長軍の中には、そういないでしょ。
意見は聞いても、その通り動くかどうかは解らないけどな。
9 :日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:14:24
「彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず」
軍師の居場所なんかないでしょう。
10 :日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:25:36
竹中半兵衛だよ。ただし直接聞くと、プライドが許さないから猿とか使ってただけ。そういう政治家の秘書みたいなのが猿の仕事。
13 :日本@名無史さん:2007/10/08(月) 10:54:32
>>10
信長は、いわゆる忍びとか細作みたいなのも「人外の化生」と言って嫌っていた。
実際は秀吉や光秀(はちと出ないが、例えば滝川一益)の配下に忍びはいたから
織田全体としては使っているんだが。
信長ってカッコや体裁はつけるが、事実上・・・ってのが多い。
それで、部将が全部出払って単独でいる本能寺で・・・
22 :日本@名無史さん:2007/10/09(火) 14:33:15
信長の凄さは合戦の強さではなくて、経済力を背景とした兵力の優位性にある。
だから別に合戦で評価される必要もないし、接戦を勝利に導くような軍師の存在も余り必要無い。
相手の兵数の倍以上を揃えて武装を十分にさせておけば、並の武将が指揮しても勝つ訳だから。
信長は義元に勝った戦を余り誇らなかったというが、それも上記を考えれば納得のいくこと。
40 :日本@名無史さん:2007/10/16(火) 10:56:04
信長が当主になってしばらくは、信長の家督相続を支援した叔父の織田信光という
知勇に優れた絶対的存在があって、さすがの信長も頭が上がらなかったから、
事実上の織田弾正家の軍師は信光だろう。
信光が死んだ後に信長に絶対的に信頼されていた武将は、乳兄弟の池田恒興と
弟の織田信包ぐらいか。ただ信長に意見を述べていたとは考えにくい。
信長に意見が言えたのは母親の土田御前だろうな。聡明な女性で長命だったから
信長が天下人となりえたのは、土田御前による所が大きい。ただ、信長の晩年は
土田御前でも歯止めが掛けられなかったように思える。
56 :日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:55:06
信長にとっては、周囲の人間全部軍師だと思うよ。
総合判断は全部自分でするから、一方的に意見を聞くだけ
だっただろうけど、それなりに参考にはしていたのでは?
情報を重視していたから、聞く耳を持たない閉鎖的な一面は
全くない。
参考にするが指図は受けないスタンス。
合理主義者なので、当たり前のことは敵も考えそうだから、
当たり前の意見には納得しない。
敵に勝つために奇抜な発想を好んだ。
確率論でいうと、奇抜なことは発生しにくいから、それを得るには
多くの意見を聞かなければならなくなるわけで、それをえるには
情報収集を徹底的にやる以外にない。
意見を聞くこと自体は惜しみなくやらないと、奇抜な発想には行き
着かない。
意見を聞く姿勢だけはあったはずだから、周りの者全てを軍師とし
て活用していたと考えても可笑しくない気がする。
ただ「師」の部分に対する尊厳的意味合いは希薄だっただろう。
69 :日本@名無史さん:2007/11/03(土) 07:34:13
まあ、所謂「軍師」つーのは、光栄が「諸葛亮孔明」を
際立たせるための、造語に近い概念だからな。
日本の戦国大名なんかに、助言や諌言なんかしたら、へた
すりゃ打ち首。だからこそ、当時の家臣はそれまでの経歴
、名門の出身(家柄)、先祖からの恩顧を重視してた。
要するに、家臣は家内の不満分子って事だ。
普通、戦国大名が領国経営の相談をするのは、利害の及ば
ない、自身の檀家の僧侶が一般的。
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ふう。ついに読破した。