淳于瓊について語ろう
2008.05.06 |Category …歴史・戦国
官渡の戦いで袁紹軍の兵糧の護送隊長を務めるも、烏巣で
曹操軍の奇襲に逢い、兵糧を焼き払われた上に鼻を削がれて
処刑された悲劇の武将・淳于瓊仲簡。
彼のことについての史実は正直言って少ないが、彼のファンで
ある私にとっては出来る限り語りたいと思う。
曹操軍の奇襲に逢い、兵糧を焼き払われた上に鼻を削がれて
処刑された悲劇の武将・淳于瓊仲簡。
彼のことについての史実は正直言って少ないが、彼のファンで
ある私にとっては出来る限り語りたいと思う。
つづきを読む
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2006/12/04(月) 22:57:10 ID:4Suo+TEf0
この人の事跡は、西園八校尉になったのと、
献帝奉戴に反対したぐらいかな。
もともと結構な名士だったんじゃないのかなあ。
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/12/04(月) 23:41:59 ID:Sr3Y8M9J0
献帝奉戴に反対したぐらいかな。
もともと結構な名士だったんじゃないのかなあ。
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/12/04(月) 23:41:59 ID:Sr3Y8M9J0
淳于姓の人って、漢代に多そうなイメージ
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [age] 投稿日: 2006/12/05(火) 03:57:49 ID:akFSscDS0
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [age] 投稿日: 2006/12/05(火) 03:57:49 ID:akFSscDS0
>>2
私もそう思う。沮授と郭図と共に確か都督として軍権を
握っていたね。
>>4
過去に「淳于」の姓を持つ歴史上の人物といえば、春秋戦国時代だと
淳于公(じゅんうこう)に淳于髠(じゅんうこん)、三国志では
曹仁配下の武将である淳于丹(じゅんうたん)、陸遜配下の武将である淳于導
(じゅんうどう)、あと魏の4代目皇帝であり、「高貴郷公」と呼ばれた曹髦の
講師を務めた淳于俊(じゅんうしゅん)、「南柯太守伝」という中国唐代の昔話の
主人公である淳于棼(じゅんうふん)などがいるよ。
特にこの中で有名(?)なのは、春秋戦国時代の斉の威王という君主の政治顧問を
務めた淳于髠で、詳しくは言えないがかなり外交や諫言などがうまく、斉の国の
人からは「弁舌が尽きぬ男」と言われていたそうだ。
私もそう思う。沮授と郭図と共に確か都督として軍権を
握っていたね。
>>4
過去に「淳于」の姓を持つ歴史上の人物といえば、春秋戦国時代だと
淳于公(じゅんうこう)に淳于髠(じゅんうこん)、三国志では
曹仁配下の武将である淳于丹(じゅんうたん)、陸遜配下の武将である淳于導
(じゅんうどう)、あと魏の4代目皇帝であり、「高貴郷公」と呼ばれた曹髦の
講師を務めた淳于俊(じゅんうしゅん)、「南柯太守伝」という中国唐代の昔話の
主人公である淳于棼(じゅんうふん)などがいるよ。
特にこの中で有名(?)なのは、春秋戦国時代の斉の威王という君主の政治顧問を
務めた淳于髠で、詳しくは言えないがかなり外交や諫言などがうまく、斉の国の
人からは「弁舌が尽きぬ男」と言われていたそうだ。
それにしても、>>2氏の言うとおり、かなりの名士なら、三国志大戦で
武力6、知力3という、あのスペックはないだろう。まあ、「烏巣の断末魔」は
全キャラクターでは使いようによっては屈指の威力を誇るけど・・・・・。
やっぱり知力が3と言うのは駄目だ。淳于瓊には5か6が相応しい。
武力6、知力3という、あのスペックはないだろう。まあ、「烏巣の断末魔」は
全キャラクターでは使いようによっては屈指の威力を誇るけど・・・・・。
やっぱり知力が3と言うのは駄目だ。淳于瓊には5か6が相応しい。
武安国と被る
ああ、確かに武安国と比べると知名度と史実の無さが同じかもね。
でも、武安国の方は過去のスレではよくネタにして取り上げられていたことが
あったんじゃあないか? それに比べたら淳于瓊なんかチョコチョコとしか
出てこないよ。
でも、武安国の方は過去のスレではよくネタにして取り上げられていたことが
あったんじゃあないか? それに比べたら淳于瓊なんかチョコチョコとしか
出てこないよ。
ジャーン、ジャーン!
げぇ!武安国!
げぇ!武安国!
淳于瓊の旦那は、ベロンベロンに酔っ払って職務を忘れてるところに親近感。
http://touten.yamashi.wakatono.jp/C7_1.htm#1
↑淳于瓊と曹操のやり取りがここにあるぞ!!
>>14
「正史」ではそんな事実は一切載っていないんだな、これが。
だが、一説では性格は瞬間湯沸かし器の如く短気だったそうな
↑淳于瓊と曹操のやり取りがここにあるぞ!!
>>14
「正史」ではそんな事実は一切載っていないんだな、これが。
だが、一説では性格は瞬間湯沸かし器の如く短気だったそうな
ジャーン、ジャーン!!
「官渡での恨み、今ここで晴らしてくれようぞぉぉぉ!!!!!」
げげぇ!!! 淳于瓊の怨霊!!!
「官渡での恨み、今ここで晴らしてくれようぞぉぉぉ!!!!!」
げげぇ!!! 淳于瓊の怨霊!!!
正史では曹操は淳于瓊を降伏させようとしたんだっけ?
でもその前に鼻は削がれてるんだよね。
降伏させるつもりならそんな手荒いマネしなくとも良い気がするんだが。
でもその前に鼻は削がれてるんだよね。
降伏させるつもりならそんな手荒いマネしなくとも良い気がするんだが。
曹操や袁紹の同僚だったという事実がいろいろと想像を掻き立てる
>>17
それは言えてる。で、その鼻を削がれた淳于瓊を帰順させようとしたら許攸が
「鏡を見るたびに我らに恨みを持ちますぞ」と余計な茶々を入れたんだよね。
でもあれ、許攸のみならず誰かにそう言わせる様に仕向けたと自分は思ったりも
したのだが、皆さんはどう思う?
それは言えてる。で、その鼻を削がれた淳于瓊を帰順させようとしたら許攸が
「鏡を見るたびに我らに恨みを持ちますぞ」と余計な茶々を入れたんだよね。
でもあれ、許攸のみならず誰かにそう言わせる様に仕向けたと自分は思ったりも
したのだが、皆さんはどう思う?
>>18
私もそれ(曹操、袁紹と共に西園八校尉を務めていたこと)を知った時、
「えっ、あんな大物と昔は比肩するほど偉かったのか!?」と驚いたものだよ。
アーケードゲームの三国志大戦の郡雄伝では十常侍討伐の時の袁紹の戦略に
感心して「あんたについていくとしようか!!」と言って袁紹の配下に就いたと
なっていたよ。あれには笑っちゃったね。まあ、他にも理由があると思うが。
私もそれ(曹操、袁紹と共に西園八校尉を務めていたこと)を知った時、
「えっ、あんな大物と昔は比肩するほど偉かったのか!?」と驚いたものだよ。
アーケードゲームの三国志大戦の郡雄伝では十常侍討伐の時の袁紹の戦略に
感心して「あんたについていくとしようか!!」と言って袁紹の配下に就いたと
なっていたよ。あれには笑っちゃったね。まあ、他にも理由があると思うが。
鮮于輔「それより俺を忘れるなよ」
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/12/08(金) 03:20:19 ID:BKLP3vbo0
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/12/08(金) 03:20:19 ID:BKLP3vbo0
SF小説の話だが銀英伝で同盟の総参謀長となった人物「チェン・ウー・チェン」は
漢字で書くと「淳于○」になるらしい。
漢字で書くと「淳于○」になるらしい。
>>43
淳于瓊 「何かそういう大物の人が『淳于』姓を受け継いでくれると
いうのは非常に嬉しい限りだ。調べてみたがその『チュン・ウー・チェン』という
人物、『パン屋の2代目』というあだ名があるんだね。親近感が湧いてきたよ。
ちなみに『チェン』がつく人物の代表としてジャッキー・チェンのほうで調べたら
漢名が『成龍』となっていたぞ。となるとそのチュン・ウー・チェンの
漢名は『淳于龍』か『淳于成』ということになるかも知れない。まあ、
これは私の完全なる憶測だけど。」
淳于瓊 「何かそういう大物の人が『淳于』姓を受け継いでくれると
いうのは非常に嬉しい限りだ。調べてみたがその『チュン・ウー・チェン』という
人物、『パン屋の2代目』というあだ名があるんだね。親近感が湧いてきたよ。
ちなみに『チェン』がつく人物の代表としてジャッキー・チェンのほうで調べたら
漢名が『成龍』となっていたぞ。となるとそのチュン・ウー・チェンの
漢名は『淳于龍』か『淳于成』ということになるかも知れない。まあ、
これは私の完全なる憶測だけど。」
淳于瓊 「更に調べたら彼、『民主主義に乾杯』という名言があるんだな!!
いい言葉ではないか!! 殿(袁紹)には真に申し訳ないが、実は、劉備みたいな
多くの人から慕われる人物が国を治めるべきだと常々思っていたのだよ。
殿は晩年、人間不信みたいなところが出てきたから劉備には劣ると考えざるを得ない
と思っての苦言だが。まあ、殿を弁護するならば、ある文献では殿が亡くなった時、
『領民の多くが(袁紹の死に)涙を流した』と書かれていたな、うん。
ん? そう考えると殿もわりかしチュン・ウー・チェン殿に共通している部分が
あるような気がしてきたぞ。」
いい言葉ではないか!! 殿(袁紹)には真に申し訳ないが、実は、劉備みたいな
多くの人から慕われる人物が国を治めるべきだと常々思っていたのだよ。
殿は晩年、人間不信みたいなところが出てきたから劉備には劣ると考えざるを得ない
と思っての苦言だが。まあ、殿を弁護するならば、ある文献では殿が亡くなった時、
『領民の多くが(袁紹の死に)涙を流した』と書かれていたな、うん。
ん? そう考えると殿もわりかしチュン・ウー・チェン殿に共通している部分が
あるような気がしてきたぞ。」
ただのネタスレかと思ったら、意外にクオリティ高くて驚いた。
このスレには末永く頑張っていただきたい。
このスレには末永く頑張っていただきたい。
関連wiki
http://wiki.ninki.org/wiki.cgi?p=%bd%df%d0%b2%e0%fb%a4%cb%a4%c4%a4%a4%a4%c6%b8%ec%a4%ed%a4%a6
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/12/08(金) 16:13:28 ID:S3+rlAFw0
http://wiki.ninki.org/wiki.cgi?p=%bd%df%d0%b2%e0%fb%a4%cb%a4%c4%a4%a4%a4%c6%b8%ec%a4%ed%a4%a6
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/12/08(金) 16:13:28 ID:S3+rlAFw0
>>8
亀だが、DS版大戦のオリジナルで、
武7知5募というコーエーでは有り得ない能力になってる。
正史でも堂々とした男だったらしいから、コーエーでも武力80くらいは欲しいね…
亀だが、DS版大戦のオリジナルで、
武7知5募というコーエーでは有り得ない能力になってる。
正史でも堂々とした男だったらしいから、コーエーでも武力80くらいは欲しいね…
携帯三国志だと何と武力86!
>>45
淳于瓊 「教えてくれてありがとう!!」
>>49
それでも私はあのカードの淳于瓊の方が真の姿だと思ってます。
因みにカード裏に書かれている人物説明も面白く、カードの方は
「正史」の方の説明で、DS版の方は「三国志演義」の方の説明が
記されているよ。
あとよく考えると、SEGAは彼の事を重宝してるような気がする。
理由はVer.1では計略「烏巣の断末魔」を士気満タンの12で発動させると
武力が18だったのにVer.2になると士気満タンの12で「烏巣の断末魔」を
発動させると何と26まで跳ね上がるよ!! しかも効果時間もまた5カウントから
6カウントに延長したときた!! 彼の大ファンである私にとっては滅茶苦茶
嬉しい限りだが、三国志の中で目立たぬ存在という感じが強い彼を何故そこまでして
強くさせるのかが不思議。
(※ただし「烏巣の断末魔」はVer.1の時は士気が0.5~1増えるごとに武力が
1つずつ追加されていたのだが、Ver.2になってからは士気7.9までは1つずつで、
8からになると0.2~0.3増えるごとに武力が1つずつ増加するようになった。欠点と
いえば兵力が少ない時、あるいはダメージ計略を持つ武将がいる時に発動させるとそれらの
攻撃により、「撤退→士気が0になる」という可能性が高いことだろう。)
>>50
凄いな、それは!! シリーズを追う毎につれて淳于瓊の武力と知力は
減少する一方だったのに、Koeiも彼の事を見直し始めたのかな?
淳于瓊 「教えてくれてありがとう!!」
>>49
それでも私はあのカードの淳于瓊の方が真の姿だと思ってます。
因みにカード裏に書かれている人物説明も面白く、カードの方は
「正史」の方の説明で、DS版の方は「三国志演義」の方の説明が
記されているよ。
あとよく考えると、SEGAは彼の事を重宝してるような気がする。
理由はVer.1では計略「烏巣の断末魔」を士気満タンの12で発動させると
武力が18だったのにVer.2になると士気満タンの12で「烏巣の断末魔」を
発動させると何と26まで跳ね上がるよ!! しかも効果時間もまた5カウントから
6カウントに延長したときた!! 彼の大ファンである私にとっては滅茶苦茶
嬉しい限りだが、三国志の中で目立たぬ存在という感じが強い彼を何故そこまでして
強くさせるのかが不思議。
(※ただし「烏巣の断末魔」はVer.1の時は士気が0.5~1増えるごとに武力が
1つずつ追加されていたのだが、Ver.2になってからは士気7.9までは1つずつで、
8からになると0.2~0.3増えるごとに武力が1つずつ増加するようになった。欠点と
いえば兵力が少ない時、あるいはダメージ計略を持つ武将がいる時に発動させるとそれらの
攻撃により、「撤退→士気が0になる」という可能性が高いことだろう。)
>>50
凄いな、それは!! シリーズを追う毎につれて淳于瓊の武力と知力は
減少する一方だったのに、Koeiも彼の事を見直し始めたのかな?
面白い身が無いかも知れんが、光栄三国志でいうなら武力統率知力は70台欲しいよね。
ってか、このスレ意外と盛り上がってるなw
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [age] 投稿日: 2006/12/08(金) 23:09:36 ID:bnaJ4rsg0
ってか、このスレ意外と盛り上がってるなw
名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [age] 投稿日: 2006/12/08(金) 23:09:36 ID:bnaJ4rsg0
そういや「三国志演義」では酔っ払って部下に暴力を振るったとも
書かれていたような気がするけど・・・・・。
やっぱりそんな事を羅貫中に書かれるくらい気性が激しい人だったのかな?
淳于瓊氏は。
書かれていたような気がするけど・・・・・。
やっぱりそんな事を羅貫中に書かれるくらい気性が激しい人だったのかな?
淳于瓊氏は。
>>57
そんなの演義の創作だろ。
実際は西園八校尉に選ばれ、
袁紹陣営の最高幹部だった名士。
そんなの演義の創作だろ。
実際は西園八校尉に選ばれ、
袁紹陣営の最高幹部だった名士。
>>58
そうだよね。
私としては顔良、文醜、張郃と並べて袁紹軍の
四天王として祀りあげたいよ。
そうだよね。
私としては顔良、文醜、張郃と並べて袁紹軍の
四天王として祀りあげたいよ。
太史慈のこともたまには思い出してあげてください
>>81
淳于瓊 「済まん!! 忘れてた!!」
太史慈 「ショック・・・・・。」
太史亨 「父上の存在を忘れるなんて無礼な輩だ!! 訴えてやる!!」
淳于瓊 「え~っ!? それで訴えるのか!?」
果たして太史慈の存在を忘れていた淳于瓊から慰謝料は取れるのか?
淳于瓊 「済まん!! 忘れてた!!」
太史慈 「ショック・・・・・。」
太史亨 「父上の存在を忘れるなんて無礼な輩だ!! 訴えてやる!!」
淳于瓊 「え~っ!? それで訴えるのか!?」
果たして太史慈の存在を忘れていた淳于瓊から慰謝料は取れるのか?
食糧庫を夜襲され、敗北決定的な失態を犯したばかりに
1800年後に至るまで小説、マンガ、ゲームで数えきれぬほど夜襲されまくる彼を見る度に心に戒める
お 酒 に は 気 を つ け な け れ ば
1800年後に至るまで小説、マンガ、ゲームで数えきれぬほど夜襲されまくる彼を見る度に心に戒める
お 酒 に は 気 を つ け な け れ ば
中国の苗字ワースト3は
1位が難氏 倭国の使者の難升米の子孫?
2位は死氏 異民族系らしいが聞いたこともないしすごい苗字だ
3位は山氏 晋の竹林の七賢の山濤で有名だがこっちは滅びてて岳飛の子孫が山氏と改名したのが祖らしい
ワーストっても2000人ぐらいいるみたいだから数人しかいない日本の苗字とt比べたらまだまだだけど
1位が難氏 倭国の使者の難升米の子孫?
2位は死氏 異民族系らしいが聞いたこともないしすごい苗字だ
3位は山氏 晋の竹林の七賢の山濤で有名だがこっちは滅びてて岳飛の子孫が山氏と改名したのが祖らしい
ワーストっても2000人ぐらいいるみたいだから数人しかいない日本の苗字とt比べたらまだまだだけど
淳于瓊 「う~む・・・・・。ここでは私はどうも、複姓の人物を呼び込む力が
あるのだろうか・・・・・? それはさておき、司馬一族が早くも衰退の一途を
辿る羽目になったのは初代皇帝の司馬炎が中国を統一した途端にだらしなくなった
のがそもそもの原因だろうな。また、一族を各地の王に仕立て上げたのもまた却って
その八王の乱の引き金になったとも取れるような気がする。まあ、仕立て上げた
だけではこんな大乱は起こらないけど・・・・・。」
あるのだろうか・・・・・? それはさておき、司馬一族が早くも衰退の一途を
辿る羽目になったのは初代皇帝の司馬炎が中国を統一した途端にだらしなくなった
のがそもそもの原因だろうな。また、一族を各地の王に仕立て上げたのもまた却って
その八王の乱の引き金になったとも取れるような気がする。まあ、仕立て上げた
だけではこんな大乱は起こらないけど・・・・・。」
司馬氏は不遇のうちは英明だが権力を握るととたんに堕落するとどこぞに書いてたけど割りと的を射てると思う
この淳于瓊、一時期「Wikipedia」で「袁紹の下で武功を挙げた」と
言うような事を書かれていたが、一体何の戦いで挙げたのかを詳しく知りたいな。
まあ、宦官討伐や公孫瓚との戦いだと思うが・・・・・。
言うような事を書かれていたが、一体何の戦いで挙げたのかを詳しく知りたいな。
まあ、宦官討伐や公孫瓚との戦いだと思うが・・・・・。
久しぶりにここを訪れたが、淳于瓊は演義では酒に酔い潰れている所を
曹操軍に奇襲されて兵糧庫を失ったという、余りにも情けないところで
有名だが、逆に正史では死に直面しているのにもかかわらず、あの曹操に
言い放った「勝敗は天にあり。これ以上何を問う事があるのか。」という
名言で有名になっているよね。
これほどギャップが違う武将というのはそうそういないのではなかろうか?
曹操軍に奇襲されて兵糧庫を失ったという、余りにも情けないところで
有名だが、逆に正史では死に直面しているのにもかかわらず、あの曹操に
言い放った「勝敗は天にあり。これ以上何を問う事があるのか。」という
名言で有名になっているよね。
これほどギャップが違う武将というのはそうそういないのではなかろうか?
わざわざ処刑しなさいという勧誘をするほどなら
許攸とは関係が良くなかったようだ
淳于瓊
許攸とは関係が良くなかったようだ
淳于瓊
それだけで二人の関係を推測するのはどうなのかな
淳于瓊が許攸をどう思ってたかわからんが許攸の単なる嫉妬ならありえそう。
人間性希薄最低レベルの糞野郎だし。
袁紹軍団事実上沮授に次ぐNo2にして後漢の官位もある重鎮として重用された淳于瓊。
いちおうはかつての同僚?が袁紹に重用され自分は疎んじられた境遇に
許攸のような人間なら十分嫉妬してそう。
そういう相手を私憤だけで処刑をすすめる。余人ならまだしも許攸なら
十分すぎるほどありえる。淳于瓊は袁紹陣営中の許攸なんかは視界にすら
入っていなかったんじゃないのかな。
人間性希薄最低レベルの糞野郎だし。
袁紹軍団事実上沮授に次ぐNo2にして後漢の官位もある重鎮として重用された淳于瓊。
いちおうはかつての同僚?が袁紹に重用され自分は疎んじられた境遇に
許攸のような人間なら十分嫉妬してそう。
そういう相手を私憤だけで処刑をすすめる。余人ならまだしも許攸なら
十分すぎるほどありえる。淳于瓊は袁紹陣営中の許攸なんかは視界にすら
入っていなかったんじゃないのかな。
>>190
許攸は南征軍の謀主を務めたとあるから、
淳于瓊の視界に入らないほど軽い地位にあったとは思えない。
霊帝時代から名高い名士だし。
許攸は南征軍の謀主を務めたとあるから、
淳于瓊の視界に入らないほど軽い地位にあったとは思えない。
霊帝時代から名高い名士だし。
たしかに。。。しかし知る限り許攸に関して正確な官位がはっきり
書いてあるものがない・・ 淳于瓊も袁紹軍での正確な官位が書いてないw
推測では許攸は、田豊の下 逢紀、荀諶らと同格の参軍的位置、張儁乂らの上という
感じじゃないかな。 逢紀だけはちょっと違うみたいだが。
淳于瓊は少なく見積もっても 沮授の下 審配郭図と同格かそれ以上なのは
間違いないと思う。
文醜が南征で兵を卒したと書かれてるのを見るとただのブサではなく
それなりの地位の将軍だったんだなぁ。
眼中ないってのは言い過ぎた。 許攸が嫌いなんで・・
正確な情報といえば袁兄弟は刺史とはっきり書かれてるのに袁尚だけが
書いてないな。
書いてあるものがない・・ 淳于瓊も袁紹軍での正確な官位が書いてないw
推測では許攸は、田豊の下 逢紀、荀諶らと同格の参軍的位置、張儁乂らの上という
感じじゃないかな。 逢紀だけはちょっと違うみたいだが。
淳于瓊は少なく見積もっても 沮授の下 審配郭図と同格かそれ以上なのは
間違いないと思う。
文醜が南征で兵を卒したと書かれてるのを見るとただのブサではなく
それなりの地位の将軍だったんだなぁ。
眼中ないってのは言い過ぎた。 許攸が嫌いなんで・・
正確な情報といえば袁兄弟は刺史とはっきり書かれてるのに袁尚だけが
書いてないな。
許攸は田豊や荀諶らと同格で謀主、
淳于瓊は沮授や審配、逢紀、郭図と同格でそれぞれ一軍を率いる立場(審配と逢紀は格上かも)。
顔良・文醜は張コウらと同格の一部将だったと思う。
白馬では顔良が斬られただけで袁紹軍は崩れる事も無く、
逆に淳于瓊と郭図が関羽・張遼を追い散らしてるしね。
淳于瓊は沮授や審配、逢紀、郭図と同格でそれぞれ一軍を率いる立場(審配と逢紀は格上かも)。
顔良・文醜は張コウらと同格の一部将だったと思う。
白馬では顔良が斬られただけで袁紹軍は崩れる事も無く、
逆に淳于瓊と郭図が関羽・張遼を追い散らしてるしね。
>>193
関羽と張遼を追い散らした!!? 凄い事実だな、それは!!!
因みに淳于瓊は張合βと仲良かったのであろうか?
関羽と張遼を追い散らした!!? 凄い事実だな、それは!!!
因みに淳于瓊は張合βと仲良かったのであろうか?
関羽と張遼を追い散らしたっていうのは何かの史書に書いてあるの?
淳于瓊と関羽・張遼が最接近するのは三国志を見る限り
武帝紀の建安5年2月から4月のあたりで
このとき顔良が関羽・張遼にやられたことしか書いてない
淳于瓊と関羽・張遼が直接対決した事すら載ってないぞ
あるならソース希望
武帝紀の建安5年2月から4月のあたりで
このとき顔良が関羽・張遼にやられたことしか書いてない
淳于瓊と関羽・張遼が直接対決した事すら載ってないぞ
あるならソース希望
曹操が白馬と官渡が二つとも保持していれば、
袁紹は延津で身動きが取れなくなっていただろう。
第一渡河を妨害する為にその二将を派遣したのに、
先鋒の顔良だけ斬って退くというのはありえない。
力押しで追い返されたor最初から解囲が無理な戦力差だった、というのが納得出来る展開。
延津で対決をするフリをして白馬に援軍を出すという紛らわしい真似をしているが、
結果として戦略目標を達成していない。
戦後の結果から「曹操は神知の持ち主なので白馬の敗戦にもなんらかの意味があった」と解釈するのは贔屓が過ぎる。
関羽・張遼がどんな猛将だろうが、兵力が倍以上で並みの指揮をする敵将相手には、そうそう勝てるものではない。
袁紹は延津で身動きが取れなくなっていただろう。
第一渡河を妨害する為にその二将を派遣したのに、
先鋒の顔良だけ斬って退くというのはありえない。
力押しで追い返されたor最初から解囲が無理な戦力差だった、というのが納得出来る展開。
延津で対決をするフリをして白馬に援軍を出すという紛らわしい真似をしているが、
結果として戦略目標を達成していない。
戦後の結果から「曹操は神知の持ち主なので白馬の敗戦にもなんらかの意味があった」と解釈するのは贔屓が過ぎる。
関羽・張遼がどんな猛将だろうが、兵力が倍以上で並みの指揮をする敵将相手には、そうそう勝てるものではない。
郭図、淳于瓊、顔良が白馬に屯していながら
荀攸が曹操に「・・・顔良可禽也。」とハナから顔良だけ狙ってるような献策をして
じっさい顔良しか斬られていないのは何故か
>>197の謂は合理的だとは思うが、それでも淳于瓊が関羽と張遼を追い散らした事の
直接の証左にはならないのでは
なお「曹操は神知の持ち主」だとは毛頭思わない
荀攸が曹操に「・・・顔良可禽也。」とハナから顔良だけ狙ってるような献策をして
じっさい顔良しか斬られていないのは何故か
>>197の謂は合理的だとは思うが、それでも淳于瓊が関羽と張遼を追い散らした事の
直接の証左にはならないのでは
なお「曹操は神知の持ち主」だとは毛頭思わない
1 白馬で顔良が戦死した。
2 戦前の会議で荀攸が「…顔良可禽也」と彼の猪突傾向を指摘していた
3 後世になって彼の知恵を裏付けるエピソードのひとつとして陳寿が記述
4 100日の対峙後、烏巣と官渡で戦況が大逆転。陽武で捕虜八万とされる大勝利に終わる
5 ↑の結果から曹操乃至荀攸が「神知の持ち主」と思われる
6 まるで顔良一人を斬るために延津~白馬の防衛線を譲り渡し敵の渡河を許したような解釈が広まる
当初の計画では黎陽を拠点に防ぐ予定だったようだが、劉備の討伐で大分後退してる、というか後退しすぎなくらいである。
最初から4のような大勝利を予測できるとは思えず、無難に地勢を生かした引き分け狙いと思う。
200年の時点では袁紹は勝てば即座に覇権を掌握できるが、
曹操はこれほどの大勝利でも202年以降の袁氏の内訌が無ければ不可能だったし。
>>198
仮に白馬を守りきれたらそういう献策をしたものが評価される。
荀攸の局地的な献策しかクローズアップされないのは、
曹操以下の首脳陣が大局的にはまるで手を拱いていたからと考えるのが自然な気がする。
実際、顔良を斬れたから白馬失陥のエクスキューズになったような感じだ。
士気を維持するために関羽の戦功は誇大に自軍に向けて宣伝されたことだろう。
2 戦前の会議で荀攸が「…顔良可禽也」と彼の猪突傾向を指摘していた
3 後世になって彼の知恵を裏付けるエピソードのひとつとして陳寿が記述
4 100日の対峙後、烏巣と官渡で戦況が大逆転。陽武で捕虜八万とされる大勝利に終わる
5 ↑の結果から曹操乃至荀攸が「神知の持ち主」と思われる
6 まるで顔良一人を斬るために延津~白馬の防衛線を譲り渡し敵の渡河を許したような解釈が広まる
当初の計画では黎陽を拠点に防ぐ予定だったようだが、劉備の討伐で大分後退してる、というか後退しすぎなくらいである。
最初から4のような大勝利を予測できるとは思えず、無難に地勢を生かした引き分け狙いと思う。
200年の時点では袁紹は勝てば即座に覇権を掌握できるが、
曹操はこれほどの大勝利でも202年以降の袁氏の内訌が無ければ不可能だったし。
>>198
仮に白馬を守りきれたらそういう献策をしたものが評価される。
荀攸の局地的な献策しかクローズアップされないのは、
曹操以下の首脳陣が大局的にはまるで手を拱いていたからと考えるのが自然な気がする。
実際、顔良を斬れたから白馬失陥のエクスキューズになったような感じだ。
士気を維持するために関羽の戦功は誇大に自軍に向けて宣伝されたことだろう。
>>199
というか劉備攻めを優先したツケが回ったということか?
まあ劉備を捨てたら捨てたで二正面作戦になるから一概にどっちがいいとは言えないか。
というか劉備攻めを優先したツケが回ったということか?
まあ劉備を捨てたら捨てたで二正面作戦になるから一概にどっちがいいとは言えないか。
劉備の野心と袁紹の猛威を考えると、絶対に二正面作戦にはならないと思うが。
曹操を滅ぼして一対一になったら次は自分の番だし。
一番有利な袁紹を追い落とすために協調するという選択肢も当然ありうる。
本来曹操は張邈の乱がなければ呂布も劉備も関係なしに、もっと早期に黄河南岸を固められたはずだった。
まあ史実では実力どおりになった感じだが、その分のツケが赤壁以後に出てる感じだ。
202 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/10/21(日) 19:42:53 ID:e4DuD0ks0
曹操を滅ぼして一対一になったら次は自分の番だし。
一番有利な袁紹を追い落とすために協調するという選択肢も当然ありうる。
本来曹操は張邈の乱がなければ呂布も劉備も関係なしに、もっと早期に黄河南岸を固められたはずだった。
まあ史実では実力どおりになった感じだが、その分のツケが赤壁以後に出てる感じだ。
202 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/10/21(日) 19:42:53 ID:e4DuD0ks0
あの当時の劉備の野心がどの程度までであったのかは難しいと思うけどね。
よく言われるのは孔明の天下三分を聞いて初めて野心を露にしたってのだけど、
天下三分を無視した事実は別として、俺もこの頃から野心が芽生えたんだと思ってる。
そんな訳で、少なくとも曹操を滅ぼすまでは袁紹と協調する筈。
というか官渡を抜かれれば許はすぐそこだし、曹操は滅亡したも同然。
それを考えれば両者を天秤にかけて漁夫の利を得ようなんて事はしないんじゃないかな。
黙ってても袁紹に重用される事は約束されている、とか考えてそうだし。
よく言われるのは孔明の天下三分を聞いて初めて野心を露にしたってのだけど、
天下三分を無視した事実は別として、俺もこの頃から野心が芽生えたんだと思ってる。
そんな訳で、少なくとも曹操を滅ぼすまでは袁紹と協調する筈。
というか官渡を抜かれれば許はすぐそこだし、曹操は滅亡したも同然。
それを考えれば両者を天秤にかけて漁夫の利を得ようなんて事はしないんじゃないかな。
黙ってても袁紹に重用される事は約束されている、とか考えてそうだし。
>>201
面白い考え方だが、それなら劉備が曹操に背く理由が微妙にならないか?
まあ、董承の暗殺計画荷担をチャラにすると共に独立を果たした上で曹操と協力して袁紹を倒すというのも劉備としてはアリだが、袁紹の下につくことを前提にして曹操に背いたという方がありそうではある。
204 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/10/22(月) 01:31:02 ID:ZVVGpddB0
面白い考え方だが、それなら劉備が曹操に背く理由が微妙にならないか?
まあ、董承の暗殺計画荷担をチャラにすると共に独立を果たした上で曹操と協力して袁紹を倒すというのも劉備としてはアリだが、袁紹の下につくことを前提にして曹操に背いたという方がありそうではある。
204 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/10/22(月) 01:31:02 ID:ZVVGpddB0
184年に挙兵、24才
18X年に別部司馬、2X才
192年に平原太守、32才
193年に予州刺史、33才
194年に徐州牧、34才
190年代前半の劉備はツキすぎで、常識的に考えて異常なスピード出世。
桑の木のエピソードを考えれば天下取りへの野心は間違いなくある。
30代半ばの若造の時分に州牧になった人間がそれを持たないはずがない。
18X年に別部司馬、2X才
192年に平原太守、32才
193年に予州刺史、33才
194年に徐州牧、34才
190年代前半の劉備はツキすぎで、常識的に考えて異常なスピード出世。
桑の木のエピソードを考えれば天下取りへの野心は間違いなくある。
30代半ばの若造の時分に州牧になった人間がそれを持たないはずがない。
挙兵して10年あまりで一軍閥の長になったから、
それで満足、十分ですなんて、年齢的にもないよな。
それで満足、十分ですなんて、年齢的にもないよな。
劉備に強い上昇志向があったのは当然だと思うけど、
具体的な目標がどこまで固まっていたかは疑問だな。
その曖昧さが戦略性の無さに現れてもいる。
逆に言うと何をするかわからない、だけど。
さて>>199
官渡に至る一連の対陣は曹操にとってギリギリの防衛戦闘、
できればやりたくなかった、というのは確かだろうな。
負けない戦を心がけ(大敗したこともあるけど)、
機動防御的な交戦をし敵に打撃を与えつつ(顔良・文醜)
自陣営の民と兵を収容して(白馬)前線を後退させている。
荀彧が絶対防衛線と設定した官渡を決戦地と定めた上で
長く伸びた敵の兵站を突いて勝利する。
相当高度なもんだよ。恐ろしくギリギリの綱渡りだけど。
決定的な瞬間まで袁紹の優位は続くわけだけど、
故にこそ、「淳于瓊が関羽と張遼を蹴散らした」というのは
大仰な言い方に思える。形勢からして当然の流れだし、
何より、
おまいら同格で参戦した郭図のことも少しは思い出してあげてくださいw
具体的な目標がどこまで固まっていたかは疑問だな。
その曖昧さが戦略性の無さに現れてもいる。
逆に言うと何をするかわからない、だけど。
さて>>199
官渡に至る一連の対陣は曹操にとってギリギリの防衛戦闘、
できればやりたくなかった、というのは確かだろうな。
負けない戦を心がけ(大敗したこともあるけど)、
機動防御的な交戦をし敵に打撃を与えつつ(顔良・文醜)
自陣営の民と兵を収容して(白馬)前線を後退させている。
荀彧が絶対防衛線と設定した官渡を決戦地と定めた上で
長く伸びた敵の兵站を突いて勝利する。
相当高度なもんだよ。恐ろしくギリギリの綱渡りだけど。
決定的な瞬間まで袁紹の優位は続くわけだけど、
故にこそ、「淳于瓊が関羽と張遼を蹴散らした」というのは
大仰な言い方に思える。形勢からして当然の流れだし、
何より、
おまいら同格で参戦した郭図のことも少しは思い出してあげてくださいw
それは単に言い方の問題なんじゃないの。
認識そのものは別に違ってないように見える。
認識そのものは別に違ってないように見える。
うん、言い方の問題であって、いかにも正面決戦の末の曹操の敗北のように言うのは「問題」だろう。
と思って書いたんだが、>>193と>>197>>199の言を混同してしまったか。ごめん。
武帝紀によると、曹操は官渡から北上し、渡河を陽動としつつ白馬を救援して
顔良を斬って解囲に成功し、民を収容して後退している。追撃で大損害を受けた様子もない。
戦略的には押されまくりだが、この場での戦術的には完勝と言っていいはずだ。
対文醜戦といい、劣勢の中での一連の戦術的勝利は
袁紹軍全体の前進を遅滞させるには十分だった(はず)なのだから、
荀攸や関羽の活躍がそれぞれの伝でクローズアップされるのは当然のことだと言える。
顔良を斬れたのはエクスキューズだとか、関羽の戦功は誇大宣伝とか言うのは
斜に構えすぎた見方だと思うな
と思って書いたんだが、>>193と>>197>>199の言を混同してしまったか。ごめん。
武帝紀によると、曹操は官渡から北上し、渡河を陽動としつつ白馬を救援して
顔良を斬って解囲に成功し、民を収容して後退している。追撃で大損害を受けた様子もない。
戦略的には押されまくりだが、この場での戦術的には完勝と言っていいはずだ。
対文醜戦といい、劣勢の中での一連の戦術的勝利は
袁紹軍全体の前進を遅滞させるには十分だった(はず)なのだから、
荀攸や関羽の活躍がそれぞれの伝でクローズアップされるのは当然のことだと言える。
顔良を斬れたのはエクスキューズだとか、関羽の戦功は誇大宣伝とか言うのは
斜に構えすぎた見方だと思うな
官渡の曹操の方が先に補給が足りずに根を上げる寸前だったことを踏まえると、袁紹の進軍を遅滞させたことが当時の曹操にとって有効な行動だったのかという問題もある気がしないでもない
「相当に高度な戦略を行ったので最終的に大勝した」
というのは正史を素直に読めば得られる当然の結論なのは同意する。
だが、それは結果論と仮定して、
「水際で防ごうとしたらガン攻めで押し込まれて、
敵の占領が根を張る前に機密漏洩を頼りに必死こいて敵の兵站拠点に突入したら圧勝してしまった、というのが現実じゃないか?」
という懐疑的なスタンスで見てるので、斜に構えた見方に見えるのは当然だろう。
勝ったからいいようなものの防衛線を官渡まで下げても、
自軍の兵站が尽きる寸前だったことを考えれば、
曹操と幕僚らが採った戦略はリスクを取りすぎで下策としか言えない。
百戦百勝どころではない玉砕戦術を成功させたのは流石だけどなー。
「淳于瓊(郭図)が関羽と張遼を蹴散らした」というのも兵力差が違えば当然の結果だろう。
そんな大げさな言い方とは思わないけど。
プライオリティはあくまで「白馬解囲>顔良斬殺」なのだから、
関羽のやったことは凄いことは凄いけどあの時点では焼け石に水だろう。
というのは正史を素直に読めば得られる当然の結論なのは同意する。
だが、それは結果論と仮定して、
「水際で防ごうとしたらガン攻めで押し込まれて、
敵の占領が根を張る前に機密漏洩を頼りに必死こいて敵の兵站拠点に突入したら圧勝してしまった、というのが現実じゃないか?」
という懐疑的なスタンスで見てるので、斜に構えた見方に見えるのは当然だろう。
勝ったからいいようなものの防衛線を官渡まで下げても、
自軍の兵站が尽きる寸前だったことを考えれば、
曹操と幕僚らが採った戦略はリスクを取りすぎで下策としか言えない。
百戦百勝どころではない玉砕戦術を成功させたのは流石だけどなー。
「淳于瓊(郭図)が関羽と張遼を蹴散らした」というのも兵力差が違えば当然の結果だろう。
そんな大げさな言い方とは思わないけど。
プライオリティはあくまで「白馬解囲>顔良斬殺」なのだから、
関羽のやったことは凄いことは凄いけどあの時点では焼け石に水だろう。
無抵抗で後退するわけにはいかないしw
これだけ劣勢の戦で万事計算どおりにいくわけがない。
曹操自身も初めから官渡を決戦地に設定して
袁紹を引き込んだわけじゃないだろう。
これだけ劣勢の戦で万事計算どおりにいくわけがない。
曹操自身も初めから官渡を決戦地に設定して
袁紹を引き込んだわけじゃないだろう。
>>213
白馬の件一点に限っては、現実に解囲に成功して民を引き連れて後退しているのだから、
蹴散らされたとはとても言えない。追撃があったかどうかも怪しい。
んで、烏巣の輜重を焼いたこと自体が圧勝ではないと思うよ。
その混乱と兼ねてからの内部のごたごたによって張コウらが裏切ったため、
袁紹は兵を退いた。その後退につけこんで追撃した時に初めて
人的な大損害を与えることができたのだと思う。
荀彧の「今は両者全軍を集めて対峙しているので、ここで退いた方が負ける」
が正鵠を射たことになる。予備兵力があるなら崩れてもどこかで踏ん張れるが、
余力がなければ混乱は全軍に伝わって立て直せない。
荀彧の考えによれば両者とも同じ状況なので「安全策なんて大愚策。博打しろ」
ということになる。
袁紹がもう少し人心を纏めることに注意したり、あくまで官渡に留まったりすれば
まだ対陣が続いたはずだが、ま、「敗因のない敗戦はない」だから、これによって
曹操の価値を低く見る必要はないだろう。
白馬の件一点に限っては、現実に解囲に成功して民を引き連れて後退しているのだから、
蹴散らされたとはとても言えない。追撃があったかどうかも怪しい。
んで、烏巣の輜重を焼いたこと自体が圧勝ではないと思うよ。
その混乱と兼ねてからの内部のごたごたによって張コウらが裏切ったため、
袁紹は兵を退いた。その後退につけこんで追撃した時に初めて
人的な大損害を与えることができたのだと思う。
荀彧の「今は両者全軍を集めて対峙しているので、ここで退いた方が負ける」
が正鵠を射たことになる。予備兵力があるなら崩れてもどこかで踏ん張れるが、
余力がなければ混乱は全軍に伝わって立て直せない。
荀彧の考えによれば両者とも同じ状況なので「安全策なんて大愚策。博打しろ」
ということになる。
袁紹がもう少し人心を纏めることに注意したり、あくまで官渡に留まったりすれば
まだ対陣が続いたはずだが、ま、「敗因のない敗戦はない」だから、これによって
曹操の価値を低く見る必要はないだろう。
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