正史呂布の強さについて考察するスレ
2008.05.09 |Category …歴史・戦国
・正史三国志で数少ない一騎討ち経験者。
・時の権力者董卓のボディーガードを努めていた。
・抜群の弓術と馬術と腕力を持っていたため飛将と呼ばれた。
・蒼天の下に立てらられた戟をただ一矢で射ぬく
・武芸に優れていた丁原、董卓を自らの手で殺す。
・黒山賊の数万の精鋭に対し数十騎で連戦戦勝、「人中の呂布、馬中の赤兎」と評される。
・袁術軍筆頭将軍の紀霊が大軍を率いて劉備を攻めた時、少数で出陣してきた呂布の勇名を恐れ、攻撃をしなかった
・兗州を乗っ取った時、引き返してきた曹操軍を一度は叩きのめしている。
・徐州を迅速な速さで乗っ取る。
・捕縛された時、曹操は呂布の強さに魅力を感じ、配下しようとした。
・陳寿は「呂布は吠えたける虎のごとき勇猛さをもつ」と評している。
やっぱりかなり強い武類の武将だったのだろうか?
中国史全体ではどのくらいのレベルに入るのか
・時の権力者董卓のボディーガードを努めていた。
・抜群の弓術と馬術と腕力を持っていたため飛将と呼ばれた。
・蒼天の下に立てらられた戟をただ一矢で射ぬく
・武芸に優れていた丁原、董卓を自らの手で殺す。
・黒山賊の数万の精鋭に対し数十騎で連戦戦勝、「人中の呂布、馬中の赤兎」と評される。
・袁術軍筆頭将軍の紀霊が大軍を率いて劉備を攻めた時、少数で出陣してきた呂布の勇名を恐れ、攻撃をしなかった
・兗州を乗っ取った時、引き返してきた曹操軍を一度は叩きのめしている。
・徐州を迅速な速さで乗っ取る。
・捕縛された時、曹操は呂布の強さに魅力を感じ、配下しようとした。
・陳寿は「呂布は吠えたける虎のごとき勇猛さをもつ」と評している。
やっぱりかなり強い武類の武将だったのだろうか?
中国史全体ではどのくらいのレベルに入るのか
つづきを読む
つとりあえずwiki
呂布
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B8%83
呂布
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B8%83
呂布ってやっぱり遊牧民出身?
出身地を考えれば遊牧民か遊牧民と漢人のハーフっぽいわな。
頭を使った作戦は不得手っぽいな
正直正史だと張飛の方が上な感じがる
正直正史だと張飛の方が上な感じがる
>>1
確かに強いとは思うが実際負けの方が圧倒的に多い。
曹操とボクヨウ攻防戦を繰り広げ、飢饉によって
休戦になったすぐ後に、弱小豪族の李進と戦って
大敗北を喫してるし、その後も呂布が一万余もの
大軍を引き連れ曹操を攻撃した時も、数百の曹操軍
に大敗北を喫し、闇にまぎれて
逃走したほど、さんざんな目に会ってるわけだし。
実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例
もない。一騎打ちにしたって郭しのような個人的武勇
がどれほどのものかもわからない男に勝ったところ
で自慢にもならないし、郭し自身をも討ち取ってすらいない。
それに賊に勝ったというが賊というのはそもそも指揮系統が
はっきりしている軍とは違って、思い思いに略奪など行っている
ならず者軍団と考えるほうが妥当。正規軍を数万を撃破したとは
わけが違う。それに兗州を確保し、孤立したケン城を攻略し
ようとした呂布はここでも苦戦し退却している。さらに曹操の
呂布討伐戦では緒戦から降伏しようとしてる。結局、陳宮に静止
され勇んで撃って出たが敗北を喫し城に篭ったが降伏してる。
呂布の徐州攻略にしたって劉備軍本隊が不在かつ、守備を任されていた
張飛はソウヒョウ軍と戦っており呂布軍とまともに戦える状況に
なかった。降伏時についても、曹操が呂布自身に魅力を感じた
という保障はどこにもない。呂布は曹操軍にはない騎兵軍団を
統べており、この北方の精強な軍団をまるごと曹操軍に編入したかった
と考え魅力を感じたと考えるほうが自然。
確かに強いとは思うが実際負けの方が圧倒的に多い。
曹操とボクヨウ攻防戦を繰り広げ、飢饉によって
休戦になったすぐ後に、弱小豪族の李進と戦って
大敗北を喫してるし、その後も呂布が一万余もの
大軍を引き連れ曹操を攻撃した時も、数百の曹操軍
に大敗北を喫し、闇にまぎれて
逃走したほど、さんざんな目に会ってるわけだし。
実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例
もない。一騎打ちにしたって郭しのような個人的武勇
がどれほどのものかもわからない男に勝ったところ
で自慢にもならないし、郭し自身をも討ち取ってすらいない。
それに賊に勝ったというが賊というのはそもそも指揮系統が
はっきりしている軍とは違って、思い思いに略奪など行っている
ならず者軍団と考えるほうが妥当。正規軍を数万を撃破したとは
わけが違う。それに兗州を確保し、孤立したケン城を攻略し
ようとした呂布はここでも苦戦し退却している。さらに曹操の
呂布討伐戦では緒戦から降伏しようとしてる。結局、陳宮に静止
され勇んで撃って出たが敗北を喫し城に篭ったが降伏してる。
呂布の徐州攻略にしたって劉備軍本隊が不在かつ、守備を任されていた
張飛はソウヒョウ軍と戦っており呂布軍とまともに戦える状況に
なかった。降伏時についても、曹操が呂布自身に魅力を感じた
という保障はどこにもない。呂布は曹操軍にはない騎兵軍団を
統べており、この北方の精強な軍団をまるごと曹操軍に編入したかった
と考え魅力を感じたと考えるほうが自然。
「山東は大臣を出し、山西は大将を出す」という。
この場合の「山」とは大行山脈のこと。
つまり涼州、并州は半異民族みたいなものなので、強兵が育ちやすいということ。
動物的な競争力に長けてる反面、人間的な社会性というのは非常に低い。
そういう連中をどうやってまとめるかというと、それはほぼ「力」。
戦利品の分配が公平とかいうのはあくまでオプションに過ぎない。
「山西出身」で「指揮官」というだけで山東系の部将よりは真正面の組合いでは一日の長がある。
それと側面、背面、兵站、その他の総合力は別。
力だけが価値観の連中の上に立つのは最強でなければならない。
だから、呂布は当然最強の強兵で猛将ということになる。
戦績から帰納的に考えると大したことの無いヤツというのは正しいが、
それだけだと何故そんなボンクラが天下をかき回したのか分からなくなるだろう。
この場合の「山」とは大行山脈のこと。
つまり涼州、并州は半異民族みたいなものなので、強兵が育ちやすいということ。
動物的な競争力に長けてる反面、人間的な社会性というのは非常に低い。
そういう連中をどうやってまとめるかというと、それはほぼ「力」。
戦利品の分配が公平とかいうのはあくまでオプションに過ぎない。
「山西出身」で「指揮官」というだけで山東系の部将よりは真正面の組合いでは一日の長がある。
それと側面、背面、兵站、その他の総合力は別。
力だけが価値観の連中の上に立つのは最強でなければならない。
だから、呂布は当然最強の強兵で猛将ということになる。
戦績から帰納的に考えると大したことの無いヤツというのは正しいが、
それだけだと何故そんなボンクラが天下をかき回したのか分からなくなるだろう。
>>28
>実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例もない。
正規軍とはなんぞや?
呂布のいた当時は、各勢力の兵は全て漢の正規軍と言えなくもない。
魏・呉・蜀分離したあと、「敵はxxの正規軍」と必ず言える状態の
張遼や張飛の戦果と同列に比較して、呂布の相手は「正規軍じゃないから」
って、オマエはアホか
>実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例もない。
正規軍とはなんぞや?
呂布のいた当時は、各勢力の兵は全て漢の正規軍と言えなくもない。
魏・呉・蜀分離したあと、「敵はxxの正規軍」と必ず言える状態の
張遼や張飛の戦果と同列に比較して、呂布の相手は「正規軍じゃないから」
って、オマエはアホか
人中の呂布、馬中の赤兎ですからなぁ
呂布も敵わなかった李カクらなんかは
最期は割と簡単にやられて討ち取られているように見えるのだが
呂布は最後までしぶとかったな。
内通者や離反者が出なかったらまだまだ粘れただろうか
最期は割と簡単にやられて討ち取られているように見えるのだが
呂布は最後までしぶとかったな。
内通者や離反者が出なかったらまだまだ粘れただろうか
まぁ 馬鹿な猛将以上の評価はないってことか?
たしか 字が読めなかったんだよな呂布は。。つまり兵法書も読んでなかった、だからこそ兵法に詳しい陳宮との意見の相違も起きたんだな
たしか 字が読めなかったんだよな呂布は。。つまり兵法書も読んでなかった、だからこそ兵法に詳しい陳宮との意見の相違も起きたんだな
陳宮が呂布に造反したのは事実なんだろうか?
物語のような忠誠心があったとは思わないが。
造反者なのに呂布は最後まで仕えさせたし、陳宮も殉じたんだよな
物語のような忠誠心があったとは思わないが。
造反者なのに呂布は最後まで仕えさせたし、陳宮も殉じたんだよな
造反したのかどうかが事実であるかどうかは兎も角
高順が全軍の前で陳宮を告発した事で、呂布軍と陳宮の信頼関係は失われたと思う。
高順が全軍の前で陳宮を告発した事で、呂布軍と陳宮の信頼関係は失われたと思う。
追記。あくまで推測だけど述べてみる。
カク萌の乱後、
「呂布は高順を嫌うようになり、その兵を奪って魏続の部将としたが、高順はそれを恨まなかった」とされる。
その理由について正史の注では「陳宮の事が有ったからだ」としている。
しかし、これは陳宮がカク萌と乱を起こした事に関連させると全く意味不明。
何故なら、高順はカク萌の乱の鎮圧では大活躍だったからだ。
呂布を脳筋馬鹿で高順の大活躍に嫉妬した小物、と取ればこういった経緯もアリかもしれないが、
自分は、呂布はそこまで馬鹿ではないと思いたい。
では、高順と陳宮の何を問題として、呂布は腹心である高順にそんな仕打ちをしたのか。
呂布は、陳宮と高順がかねてから不仲である事を知りながら、2人を同時に用いている。
呂布の、両者への評価が高かった事が伺える。
そして、カク萌が造反する事件が起こった。
高順は陳宮を告発したが、陳宮は押し黙って反論せず、呂布は結局陳宮を不問に処したとされる。
謀叛は死罪をもって当たるのが正道。陳宮を不問に処す理由は2つしか考えられない。
1:呂布には陳宮を処罰出来なかった=呂布軍に陳宮が不可欠だったか、陳宮はパトロンだった
2:陳宮は無実だった=真実無実だったか、証拠不十分だったか
高順は、不適当な告発によって兵士に混乱を起こした罪によって兵を奪われたのではなかろうか。
カク萌の乱後、
「呂布は高順を嫌うようになり、その兵を奪って魏続の部将としたが、高順はそれを恨まなかった」とされる。
その理由について正史の注では「陳宮の事が有ったからだ」としている。
しかし、これは陳宮がカク萌と乱を起こした事に関連させると全く意味不明。
何故なら、高順はカク萌の乱の鎮圧では大活躍だったからだ。
呂布を脳筋馬鹿で高順の大活躍に嫉妬した小物、と取ればこういった経緯もアリかもしれないが、
自分は、呂布はそこまで馬鹿ではないと思いたい。
では、高順と陳宮の何を問題として、呂布は腹心である高順にそんな仕打ちをしたのか。
呂布は、陳宮と高順がかねてから不仲である事を知りながら、2人を同時に用いている。
呂布の、両者への評価が高かった事が伺える。
そして、カク萌が造反する事件が起こった。
高順は陳宮を告発したが、陳宮は押し黙って反論せず、呂布は結局陳宮を不問に処したとされる。
謀叛は死罪をもって当たるのが正道。陳宮を不問に処す理由は2つしか考えられない。
1:呂布には陳宮を処罰出来なかった=呂布軍に陳宮が不可欠だったか、陳宮はパトロンだった
2:陳宮は無実だった=真実無実だったか、証拠不十分だったか
高順は、不適当な告発によって兵士に混乱を起こした罪によって兵を奪われたのではなかろうか。
>>41
1でしょうな
陳宮は曹操の下でもかなり有力な将だったようだから、
呂布の下でも多分有力だっただろう
多分呂布の指揮する兵の多くが陳宮の私兵だったんじゃなかろうか
下手に陳宮を切ると自分が痛いわけだ
1でしょうな
陳宮は曹操の下でもかなり有力な将だったようだから、
呂布の下でも多分有力だっただろう
多分呂布の指揮する兵の多くが陳宮の私兵だったんじゃなかろうか
下手に陳宮を切ると自分が痛いわけだ
たしかに蒙古もどきの強さがあったんだろうけど、郝萌に反乱された
時、便所の天井から必死こいて脱出てのが彼もまた人の子なんだな~と
ほのぼのさせられる。
時、便所の天井から必死こいて脱出てのが彼もまた人の子なんだな~と
ほのぼのさせられる。
ところで呂布って、董卓軍にいた時に大軍を率いた事ってあった?
一部隊はあっても総大将だった覚えがないんだが…
一部隊はあっても総大将だった覚えがないんだが…
遷都した後は完全に董卓のSPだからなぁ。
>>54
虎牢関では胡軫の副将だったしな。
自分で兵を率いたのは董卓暗殺後じゃない?
虎牢関では胡軫の副将だったしな。
自分で兵を率いたのは董卓暗殺後じゃない?
>だが元丁原の軍はそのまま丸ごと率いている筈
???
なぜ断言できるんだろ???
???
なぜ断言できるんだろ???
>>57
ゲームと違い、当時の軍は豪族の私兵だから。
呂布に張遼や秦宜禄、李粛という丁原時代からの并州出身者が付き従っている所を見ても、
呂布が丁原の軍をまとめている事が分かる。
ゲームと違い、当時の軍は豪族の私兵だから。
呂布に張遼や秦宜禄、李粛という丁原時代からの并州出身者が付き従っている所を見ても、
呂布が丁原の軍をまとめている事が分かる。
>>60
丁原の軍が全て、丁原を直接的な支配者と認識していて、
丁原の後継者を呂布と認めているという前提がつく話だな
ゲームじゃあるまいし、そんなことはありえないと思うけどね^^
丁原の軍が全て、丁原を直接的な支配者と認識していて、
丁原の後継者を呂布と認めているという前提がつく話だな
ゲームじゃあるまいし、そんなことはありえないと思うけどね^^
丁原は騎都尉で呂布はその主簿
主簿は上官の文章や印鑑なんかも管理してるので
上司がいなくなれば最もその権力を掌握し易い存在
董卓が呂布を抱き込んで兵目当てで丁原を殺させたのもその為かと
騎都尉の兵権をそのまま掌握し、土豪なんかの私兵も同じ并州出身の呂布ならば調整できる
>>61
ゲームじゃないけど呂布は丁原の持つ兵をほとんど掌握できる状況にあった
そもそも「後継者」って発想が間違ってる
漢の兵権を借りて兵士を使ってるわけで拠り所は丁原じゃなくて「印綬」
「印綬」持ってれば官兵の掌握は難しいものじゃない
主簿は上官の文章や印鑑なんかも管理してるので
上司がいなくなれば最もその権力を掌握し易い存在
董卓が呂布を抱き込んで兵目当てで丁原を殺させたのもその為かと
騎都尉の兵権をそのまま掌握し、土豪なんかの私兵も同じ并州出身の呂布ならば調整できる
>>61
ゲームじゃないけど呂布は丁原の持つ兵をほとんど掌握できる状況にあった
そもそも「後継者」って発想が間違ってる
漢の兵権を借りて兵士を使ってるわけで拠り所は丁原じゃなくて「印綬」
「印綬」持ってれば官兵の掌握は難しいものじゃない
丁原は豪族ではない。
丁原の出世コースは役人(今の日本だと巡査か?)からスタートする。
危険を顧みない勇猛さが認められ、最終的に執金吾まで出世する(つまり、呂布に殺された時ね)。
状況的に官兵の可能性が高そうだ。というより私兵を雇う余裕がなさそう。
丁原の出世コースは役人(今の日本だと巡査か?)からスタートする。
危険を顧みない勇猛さが認められ、最終的に執金吾まで出世する(つまり、呂布に殺された時ね)。
状況的に官兵の可能性が高そうだ。というより私兵を雇う余裕がなさそう。
呂布は丁原の全兵権を握ってた。(証拠なし)
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
豪族の私兵だから全部ついてったに決まってる。
↓
豪族の私兵なら、なおさら分散するはず
↓
豪族の私兵じゃない。官兵だから主簿の呂布が統率できた。
↓
ただの主簿如きにそんなの無理
↓
丁原の全兵権握れたんだから、ただの主簿じゃなかった証拠になる。
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
以下、上に戻ってエンドレス
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
豪族の私兵だから全部ついてったに決まってる。
↓
豪族の私兵なら、なおさら分散するはず
↓
豪族の私兵じゃない。官兵だから主簿の呂布が統率できた。
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ただの主簿如きにそんなの無理
↓
丁原の全兵権握れたんだから、ただの主簿じゃなかった証拠になる。
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
以下、上に戻ってエンドレス
1
布有良馬曰赤兔.
布は良馬曰く赤兔を有す。
呂布は赤兎という良馬を所有していた。
2
曹瞞傳曰:時人語曰:「人中有呂布,馬中有赤兔.」
曹瞞傳曰く、時の人語りて曰く「人中に呂布有り、馬中に赤兔有り。」
曹瞞傳という書によれば時の人々は「人に呂布という英傑がいるように、馬にも赤兎という名馬がいる」と噂した。
正史三国志巻七 魏書七 呂布臧洪傳第七 呂布 より抜粋
あとは自身で判断してくれ。
むしろ発掘された方に佚文があるとまともな学者なら考えるだろう。
75 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/11/15(木) 09:49:59 ID:pEKODIGS0
布有良馬曰赤兔.
布は良馬曰く赤兔を有す。
呂布は赤兎という良馬を所有していた。
2
曹瞞傳曰:時人語曰:「人中有呂布,馬中有赤兔.」
曹瞞傳曰く、時の人語りて曰く「人中に呂布有り、馬中に赤兔有り。」
曹瞞傳という書によれば時の人々は「人に呂布という英傑がいるように、馬にも赤兎という名馬がいる」と噂した。
正史三国志巻七 魏書七 呂布臧洪傳第七 呂布 より抜粋
あとは自身で判断してくれ。
むしろ発掘された方に佚文があるとまともな学者なら考えるだろう。
75 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2007/11/15(木) 09:49:59 ID:pEKODIGS0
曹瞞伝は曹操をひたすらクソミソに貶す書だから一般的には信憑性が薄いとされてるけど
人中有呂布、馬中有赤兔
この一文に限っては捏造する意味がないもんな
人中有呂布、馬中有赤兔
この一文に限っては捏造する意味がないもんな
強くなきゃあそこまで増長は出来ないだろうな
呂布に足らなかったのは自分が馬鹿だっていう自覚
呂布に足らなかったのは自分が馬鹿だっていう自覚
長安に篭る呂布や王允が敗走させられたのは何でですか?
単に数の差?
単に数の差?
>>84
王允のクーデターは涼州と并州の州閥争いの側面もある。
并州の方が軍事力に劣り、朝廷の名士層の支持も少なかったんだろうな。
王允のクーデターは涼州と并州の州閥争いの側面もある。
并州の方が軍事力に劣り、朝廷の名士層の支持も少なかったんだろうな。
呂布が一部将に過ぎず涼州人でもない上に、涼州人を王允が許さなかったので、董卓軍は李カクに集まった。
負けたから史書で大したことない扱いされてるだけだろう。
牛輔の方は董卓の娘婿で、長安の東に駐屯し、
つまり山東の諸侯との前線に位置して李カク・郭シらを指揮下に持っていた。
董旻と並んで長安外の董卓軍主力を擁していたと考えていいだろう。
朱儁を破ってもいる。記述が少ないだけで小者感は微塵もないよ。
牛輔の方は董卓の娘婿で、長安の東に駐屯し、
つまり山東の諸侯との前線に位置して李カク・郭シらを指揮下に持っていた。
董旻と並んで長安外の董卓軍主力を擁していたと考えていいだろう。
朱儁を破ってもいる。記述が少ないだけで小者感は微塵もないよ。
気になって三国志の董卓伝見たら、牛輔を処刑させるために
李粛を派遣したとあるじゃないかw
相応の兵力を率いていただろうけど、正面決戦目的じゃなさそうだな。
新政権の権威と董卓の死による涼州兵の動揺・寝返りを計算に入れたのだろう。
李粛を派遣したとあるじゃないかw
相応の兵力を率いていただろうけど、正面決戦目的じゃなさそうだな。
新政権の権威と董卓の死による涼州兵の動揺・寝返りを計算に入れたのだろう。
あぁ、呂布が長安開城するまで迎撃も何もしなかったのは、兵士の掌握ができなかったからか。
そうすると董卓暗殺直前には少しばかりの兵しか持ってなかったことになるか、呂布は。
そうすると董卓暗殺直前には少しばかりの兵しか持ってなかったことになるか、呂布は。
呂布の出身はモンゴル。
モンゴル出身が一番の強いなによりの証拠。モンゴル人が築き上げた元の国は、
歴史上最大の帝国。領土拡張能力は、モンゴル人は最強だということだ。
弓馬をとらせては、天下無双なのも理解できる。
さらに、朝青龍、白鳳の強さもモンゴル人の象徴だ。
モンゴル出身が一番の強いなによりの証拠。モンゴル人が築き上げた元の国は、
歴史上最大の帝国。領土拡張能力は、モンゴル人は最強だということだ。
弓馬をとらせては、天下無双なのも理解できる。
さらに、朝青龍、白鳳の強さもモンゴル人の象徴だ。
モンゴル人て、モンゴル拡大の過程で様々な部族や民族を内包してモンゴルというんだが?
元のモンゴルがいたのはゴビ砂漠の向こうで呂布の出自の五原の住人をモンゴルなぞいわん
そもそもモンゴル自体がはるか後世の民族だろうが
呂布が異民族と漢族の雑居地帯にいた事は確かだろうが、呂布がモンゴルな訳ないだろ
元のモンゴルがいたのはゴビ砂漠の向こうで呂布の出自の五原の住人をモンゴルなぞいわん
そもそもモンゴル自体がはるか後世の民族だろうが
呂布が異民族と漢族の雑居地帯にいた事は確かだろうが、呂布がモンゴルな訳ないだろ
まぁ半異民族エリアの出身だから騎乗射撃はかなりのものだったんじゃないかな。
これは漢人は不得手で、異民族の最強戦法だから呂布がその使い手で
勇名が高かったんじゃないの。
武勇なら漢人の冉閔とかのほうが最強て感じだけど。
弱小国家(呂布とも共通)の大将で個人武勇の力で敵を撃破する、
一流名将でほぼ無敗の慕容格すら10度ほど連続で撃破する。
頭は良くない無策だが騎馬の突撃と個人武勇だけで敵を倒す。
智謀がないので常套戦術しか取らないので突撃を封じられて異民族
一斉騎射でアボン。
華北の漢人は騎馬の突撃は結構強かったが、騎射は会得できなかった
んじゃないかな。だからそれがすごい呂布は超人じゃんみたいな。
これは漢人は不得手で、異民族の最強戦法だから呂布がその使い手で
勇名が高かったんじゃないの。
武勇なら漢人の冉閔とかのほうが最強て感じだけど。
弱小国家(呂布とも共通)の大将で個人武勇の力で敵を撃破する、
一流名将でほぼ無敗の慕容格すら10度ほど連続で撃破する。
頭は良くない無策だが騎馬の突撃と個人武勇だけで敵を倒す。
智謀がないので常套戦術しか取らないので突撃を封じられて異民族
一斉騎射でアボン。
華北の漢人は騎馬の突撃は結構強かったが、騎射は会得できなかった
んじゃないかな。だからそれがすごい呂布は超人じゃんみたいな。
騎射が凄いと特筆されてるのはこの時代では董卓だなあ
呂布はそれに比べると漢人に近い気がする。
まず、董卓に見込まれたのは丁原を暗殺できる武勇に目を付けられてのことだし、
張燕攻撃でも、数十騎を引き連れて一日3,4度も陣営に突撃し、皆首を斬って戻ってきた
とあるし。
呂布はそれに比べると漢人に近い気がする。
まず、董卓に見込まれたのは丁原を暗殺できる武勇に目を付けられてのことだし、
張燕攻撃でも、数十騎を引き連れて一日3,4度も陣営に突撃し、皆首を斬って戻ってきた
とあるし。
騎射しない騎馬突撃って意味あるのか?騎兵は普通騎射するもんだと思う。
>>130
密集馳突。
車懸かりっていう戦い方もあるぞよ。
密集馳突。
車懸かりっていう戦い方もあるぞよ。
矢をまったく放たないわけではないが騎馬の突撃というのは意味はある
し騎射もする。
上で言われてる騎射てのはただ矢を放つてのじゃなくて、特化技術的な
レベルの射撃だろ。遊牧民は高速で馬かっとばしながらすごいバランスと
精度で射撃可能。これがモンゴル等最強だった。レベルが違う。
し騎射もする。
上で言われてる騎射てのはただ矢を放つてのじゃなくて、特化技術的な
レベルの射撃だろ。遊牧民は高速で馬かっとばしながらすごいバランスと
精度で射撃可能。これがモンゴル等最強だった。レベルが違う。
騎兵突撃っていうのは、普通歩兵の攻撃の前に敵陣を乱すとか、
戦闘中に側背を突くためにあるんじゃないか。
戦車(タンクの方)と歩兵の関係と同じで、
騎兵・戦車の攻撃は非常に強力だが、制圧は歩兵に任せるしかない。
農耕民族の軍では歩騎の割合が8:1とかなんだから、
騎兵が幾ら騎射に長けてもそれほど大打撃は与えられないと思うな。
遊牧民族のような騎兵が主体の軍では騎射が出来なければどうしようもないけど。
戦闘中に側背を突くためにあるんじゃないか。
戦車(タンクの方)と歩兵の関係と同じで、
騎兵・戦車の攻撃は非常に強力だが、制圧は歩兵に任せるしかない。
農耕民族の軍では歩騎の割合が8:1とかなんだから、
騎兵が幾ら騎射に長けてもそれほど大打撃は与えられないと思うな。
遊牧民族のような騎兵が主体の軍では騎射が出来なければどうしようもないけど。
後漢書呂布伝によると、数十騎の騎兵を率いて城壁や塹壕を飛び越え、
張燕の陣を「馳突」し、一日に3~4回それを繰り返し、毎回敵将の首を獲った。
それで十日余り戦って張燕軍を壊滅させたということらしい。
その記述からすると、後続の歩兵が付いていたような感じではないね。
前途を遮る者がなく自由自在に往来したってのは凄いけど、
大打撃を与えたというのとは違うんじゃないかなぁ。
張燕の陣を「馳突」し、一日に3~4回それを繰り返し、毎回敵将の首を獲った。
それで十日余り戦って張燕軍を壊滅させたということらしい。
その記述からすると、後続の歩兵が付いていたような感じではないね。
前途を遮る者がなく自由自在に往来したってのは凄いけど、
大打撃を与えたというのとは違うんじゃないかなぁ。
それは呂布の凄いところだが、
そんな桁外れなこと十日も繰り返せばそりゃ統率は失われるよw
歩兵主体の古代の戦闘では、正面決戦で大きな死者が出ることは少なくて、
こちらはしっかり踏ん張って敵を後退させ、
追撃戦の姿勢に入るかが問題になるわけだから、
1.戦術で勝利し、敗走させる
2.戦略的要因を作って後退させる
(幾らゆっくり慎重に撤収しても、その背後を襲われると非常に脆い。普通は)
3.将兵の士気を阻喪させて統率を失わせる。
のパターンになると思う。
後漢書の記述をそのまま信じるなら、呂布の武勲は3になるんじゃないかな。
張燕の部隊がどれほどの人数か判らないが、騎兵数十騎で敵部隊を
数量的に「壊滅」させるのはそりゃ不可能だよw
一人頭50人とか殺さないといけない。
これは騎射が得意とか不得意とかいう問題じゃないと思うな。
そんな桁外れなこと十日も繰り返せばそりゃ統率は失われるよw
歩兵主体の古代の戦闘では、正面決戦で大きな死者が出ることは少なくて、
こちらはしっかり踏ん張って敵を後退させ、
追撃戦の姿勢に入るかが問題になるわけだから、
1.戦術で勝利し、敗走させる
2.戦略的要因を作って後退させる
(幾らゆっくり慎重に撤収しても、その背後を襲われると非常に脆い。普通は)
3.将兵の士気を阻喪させて統率を失わせる。
のパターンになると思う。
後漢書の記述をそのまま信じるなら、呂布の武勲は3になるんじゃないかな。
張燕の部隊がどれほどの人数か判らないが、騎兵数十騎で敵部隊を
数量的に「壊滅」させるのはそりゃ不可能だよw
一人頭50人とか殺さないといけない。
これは騎射が得意とか不得意とかいう問題じゃないと思うな。
さっきは勘違いしてたよ。城壁や塹壕を飛び越えるってのは赤兎の能力のことで、
張燕戦の時とは限らないね。どっちにしても僅か数十騎で暴れ回ったってことで、
こんなので張燕軍を壊滅させられる訳がない。
たぶん会戦の主力は袁紹軍の歩兵で、呂布は遊軍として開戦直後から少数の騎兵で敵陣を攪乱し、
戦闘中も折を見てまた攪乱に入って、、って事なんだと思うね。
だから実際に敵兵を殺してるのは袁紹軍だろうな。
あなたの言う通り、騎射の巧拙は大して問題じゃないと思う。
張燕戦の時とは限らないね。どっちにしても僅か数十騎で暴れ回ったってことで、
こんなので張燕軍を壊滅させられる訳がない。
たぶん会戦の主力は袁紹軍の歩兵で、呂布は遊軍として開戦直後から少数の騎兵で敵陣を攪乱し、
戦闘中も折を見てまた攪乱に入って、、って事なんだと思うね。
だから実際に敵兵を殺してるのは袁紹軍だろうな。
あなたの言う通り、騎射の巧拙は大して問題じゃないと思う。
密集馳突って、それだけを必殺技のように使うわけじゃなく、敵の展開にあわせて中央部を突き抜けるとか
乱した敵陣をさらに割るとかというので、蒙古兵の集団騎射とはアプローチが違う。
それと、数十騎による馳突はよくある戦術で、敵兵をなぎ倒すというより、追い散らかす
という方があってると思うがどうだろうか。
士気の阻喪。強固な意志で結びついていない陣営では、そういうので四散することが多いようだ。
塹壕、城壁(ほとんど土塁みたいなもんで、想像される石壁ではない)越えは、飛将とか
飛ぶ如く、とか言われる人らはよくやってるようだよ。
ちなみに、密集馳突のいい例は、後漢末は知らんが、五代初期の柏郷~高邑の役がつとに有名。
気の緩んだ敵歩兵に、高速的に一撃し、敗走路に沿って追撃して大打撃を与えるというやつ。
歩兵より騎兵のほうが早いからね。
乱した敵陣をさらに割るとかというので、蒙古兵の集団騎射とはアプローチが違う。
それと、数十騎による馳突はよくある戦術で、敵兵をなぎ倒すというより、追い散らかす
という方があってると思うがどうだろうか。
士気の阻喪。強固な意志で結びついていない陣営では、そういうので四散することが多いようだ。
塹壕、城壁(ほとんど土塁みたいなもんで、想像される石壁ではない)越えは、飛将とか
飛ぶ如く、とか言われる人らはよくやってるようだよ。
ちなみに、密集馳突のいい例は、後漢末は知らんが、五代初期の柏郷~高邑の役がつとに有名。
気の緩んだ敵歩兵に、高速的に一撃し、敗走路に沿って追撃して大打撃を与えるというやつ。
歩兵より騎兵のほうが早いからね。
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