歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴
2008.05.05 |Category …歴史・戦国
織田信長(1534―1560?)
尾張守
尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って
一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に
攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。
明智光秀(1528―1600)
明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子
明智氏は代々土岐氏に仕える城主。
その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に
止むを得ず、信長を討つ。
その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り
近江坂本に幕府を開く。
つづきを読む
9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 16:59:17 ID:APppvQi3
木下秀吉 1536-1570
織田家家臣
仕官を求め国を歩くも出自が卑しいために叶わなく
一時は乞食にまで身を落としていたが
信長に戦の才を見出され従うようになった
浅井長政の離反で絶体絶命の危機の時は
即座に殿を希望し、三千の兵と共に三万もの浅井朝倉連合軍と激しく戦った
殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。
統88
知71
政21
10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 17:10:15 ID:WAVaJhlo
>>9
猛将タイプww
>殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。
糞ワロタw
33 :亜名留:2006/07/14(金) 22:12:05 ID:OR7VxNR7
武田勝頼
(1546-1604)
武田信玄4男。母は諏訪御料人。通称諏訪四郎、諏訪四郎神勝頼。
兄弟は兄に義信、信親、信之、弟に盛信、信貞、信清。
子に信勝、勝親など。
1546年、甲斐の戦国大名、武田信玄の4男として産まれる。
母が諏訪氏の出であった為、諏訪氏の名跡を継いだ。
勝頼には4人の兄がいたが、1565年に長兄である義信が父信玄に対して謀反をおこし幽閉されたため、(のち自害、病死説もあり)
急遽武田家の 後継者と目される事となる。
1573年、三方ケ原にて徳川・織田連合軍を破った直後に父信玄が病の為急逝し、武田軍は甲斐へと引き上げた。
勝頼は正式に家督を継ぎ、翌1574年には父信玄ですら落としえなかった遠江の高天神城を落城させ、
また美濃国の明智城以下18城を落城させた。その破竹の進撃に諸将たちから
『信玄公をも超えられる御館』
と称賛されたという。
1575年、三河長篠城の攻略へと向かう。
が、城を落城させるには至らず、攻略に手間取っているうちに信長自ら兵を率いて設楽原に布陣、
またそれに家康も合流したため勝頼は窮地に追いやられた。
両軍の兵力差、武田軍の地理的不利、および織田軍が大量の鉄砲を携えているとの報に勝頼は
潔く甲斐への撤退を決断する。
夜半のうちに武田軍は撤退を開始、それを知った信長は急遽追撃を決断する。
しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。
武田軍の思いもよらぬ奇襲攻撃に連合軍は撤退し、勝頼の武名は全国に轟いた。
しかしこの戦で山県、真田兄弟といった名将が戦死し、
またかねてから反抗的だった穴山信君は単独で撤退してしまった。
勝頼は戦死した武将たちの後釜に真田幸村、曽根昌世、そして弟仁科盛信等を登用し
穴山らの諸将を追放するなどし家中改革に努めた。
戦後上杉、北条らと同盟し織田・徳川に対抗するが
本能寺にて信長が倒れると台頭してきた羽柴秀吉と対立する。
しかし上杉景勝が羽柴方についたこともあり勝頼は秀吉に降伏、甲斐1国を安堵される。
この時に真田、木曽氏らは秀吉により独立させられた。
のち秀吉逝去後は台頭していたかつての宿敵、家康と親しくし、
関ケ原合戦においては老齢ながら東軍として参陣し、縦横無尽の働きを見せた。
これにより甲斐、信濃中部、南部計50万石をあたえられ、家督を嫡子信勝に譲った。
1604年、甲府にて病死、波乱に満ちた人生に幕を閉じた。
34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 23:30:21 ID:YrpJHjDp
もし、あのまま今川が勝っていたらどうなっていただろう・・
35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:10:14 ID:nIYBMlqU
>しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。
おもしろいね、戦死者が出たのは微妙だけど
41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 23:27:19 ID:YMmgDnxS
吉川元春(1530~?)
毛利元就次男。1543年、元服。1547年、父の命により熊谷信直の娘と結婚することになるが、
娘があまりに不器量であったため、対面の儀で逃走、その後の行方は分かっていない
51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 04:16:09 ID:wo4VQeTc
木下秀吉(1936年~?年)
今川義元配下。元は乞食であったという。
義元配下の一武将が彼の才覚を大いに評価し、推挙された。
また、元々下層階級の出身であったから領民には優しかったと言われ、
それと同時に様々な知略が伝承として地元に残っては居るものの、
出自が低かった為、500石以上の出世は叶わなかった。
無論、元はただの乞食であった事を考えれば大出世とも言うべきであり、
乞食が禄を得るまでの出世した事実そのものに、乱世の妙が感じられる。
今川家滅亡後は織田家に降伏し、以降、その領地を平穏に納めた。
52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 07:57:05 ID:MIiOUo79
>>51
最近じゃねぇかw
84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 01:05:09 ID:Z6At9Gkw
天下取太郎(1538~1611)
琉球出身。元服と同時に天下取りを宣言して九州に上陸し、
阿蘇山中で猿と修行した後、島津大友龍造寺を
口先三寸で丸め込んで九州連合略して九連を成立させ初代長者となる。
その後九連軍十万を率いて中国四国を平定。
1570年には単身で京に入り織田信長と七日七晩の膝詰談判の末
京無血開城を成功させる。そして織田家を九州し
五年かけて東国を制覇。小田原城に単騎入城を果たし
氏政の顔に味噌汁を三回かけて心服させたエピソードは
あまりにも有名。天下統一した後は突如天皇制を廃し
自らが日本国王となり、トッタロー一世と名乗った。
85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 02:09:35 ID:0kO46+83
>>84
これはひどい
86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 02:17:37 ID:zcNLOXPf
こいつはひどい。
87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 05:26:32 ID:GeG0r60f
笑えるならいいがまったくもって笑えねーからな。
91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 12:08:45 ID:jKly2qMx
田代 政治
1568~1645年
近江の百姓の生まれ。能役者として大成し、織田信長、豊臣秀吉に認められる。
1588年、村娘の用便を覗き、捕縛され、秀吉に切腹を命じられるも、千利休、出雲の阿国らの取り成しに
よって、芸能活動復帰を成し遂げる。しかし、1590年、関東巡業の折、武蔵の商家の風呂場を覗き、
再び捕縛。またしても命は長らえたものの、能団体を追放され、放浪の生活に。
1594年、朝鮮出兵に従軍すると、現地の朝鮮人と親しくなり、明、朝鮮軍のスパイとして活躍。
報償として全羅道を与えられる。1年後、反旗を翻し、瞬く間に朝鮮全土を手に入れ、
返す刀で満州に侵攻、足掛け10年で満州を得る。協力な騎馬軍団を武器に、15年かかって中国全土を
統一すると、イスラム諸国、ロシア、東南アジアに軍を進める。日本の徳川家康は早々に降伏し、
1640年にはヨーロッパ連合との一大決戦を制し、全世界を統一する。
自ら神を名乗り、その神国は2002年、幕を閉じた。
227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 17:30:12 ID:iOxsAfnT
法性院信玄(1521-1581)
戦国時代の天台座主(比叡山延暦寺住職)。俗名は武田晴信。
足が長く、「足長坊主」とあだ名されたという。
甲斐守護の武田家に生まれたが、父と折り合いが悪く、
1541年父信虎を追放しようとするが、陰謀が露見して逆に追放され、
比叡山において出家した。比叡山では熱心に修行し、生来の
達者な弁舌を駆使し、浅井・朝倉・三好氏を始めとする武家や、
公家・朝廷にも仏教の布教を行い、当時流行のキリスト教の宣教師にも
積極的に論戦を挑み、ルイス・フロイスを論破して弟子にするなど、
仏教の改革者として名を上げ、座主の位に上り詰める。
しかし、その信玄の前に立ちふさがったのは、天下統一を目指す織田信長で
あった。中世の権威を集大成した信玄と、西洋文明に基づく国づくりを目指す
信長とは思想的にも相容れなかったのである。
1571年、信長は比叡山を攻撃したが、信玄がかねてから養成していた
比叡山騎馬軍団に蹴散らされ、近江宇佐山に於いて自害。
その後比叡山の武力に逆らうものは誰も居なくなり、信玄のカイライ政権
である足利幕府が名目上の天下人となったが、幕府には室町探題として
信玄の腹心・春日坊教虎(高坂昌信)、山本道鬼斎(勘助晴幸)、明智天海(光秀)、瑠居巣坊風呂椅子(ルイス・フロイス、日本に帰化)ら
が送り込まれ、実質的な天下人は信玄であったという。
信玄は1573年、栄光に包まれてこの世を去った。
なお、武田家は弟の信繁が継いだが、信玄ほどの外交手腕を
持たなかった信繁は隣国の長尾、北条などに攻め込まれ1570年に
滅亡した。おそらく信玄が武田を継いでいればこのようなことは
なかったと思われる。
228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 19:44:27 ID:HLvwrWV2
>法性院信玄(1521-1581)
>信玄は1573年、栄光に包まれてこの世を去った。
どっちだよw
340 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 17:13:51 ID:xH7QOOXp
☆大津城下の決戦☆
関ヶ原の論功行賞として暫定的に関白の地位に就いた豊臣(小早川)秀秋だったが、
かつての秀次失脚事件、そして秀頼の元服時期が近付くにつれて自分の将来に不安を覚えるようになる。
そこに九州、四国の一部をも領して二百万石以上の大大名となった毛利輝元の一族・吉川広家が、
淀君一派の台頭を快く思わない高台院の意を受けて秀秋に接近。
伊達政宗、藤堂高虎など野心抑え難い旧東軍大名、新政権下で冷遇されていた大名が加わって秀頼排斥の動きが起きる。
1607年、肥後で改易された加藤清正が一揆を起こしたのを契機に再び戦乱が勃発。
秀頼軍=新東軍(島津忠恒、立花宗茂、小西行長、宇喜多秀家、上杉景勝、結城秀康etc...)
秀秋軍=新西軍(毛利輝元、藤堂高虎、伊達政宗、前田利長、長宗我部盛親、黒田長政etc...)
各地に飛び火した戦火は再度の戦国の世到来を予感させたが、およそ一ヵ月後、
秀頼派の中心・石田三成が逃げ込んだ大津城に迫った毛利輝元率いる大軍を、宇喜多秀家が主力の新東軍が迎撃。
二日間の激闘の結果、真田信繁、明石全登、島勝猛といった猛者の活躍で新西軍を打ち破る。
その後、結果を知った長宗我部盛親ら畿内の大名が次々と寝返る。中国一帯に広がっていた毛利領も、
東から宇喜多、南から長宗我部、西から九州の鍋島や島津などに侵食されるなどしてあっけなく制圧。
東北でゲリラ的活動を行っていた伊達、最上も相次いで降伏し、戦乱はここに収束する。
捕縛された関白秀秋、毛利輝元、吉川広家、藤堂高虎らは、かつて徳川家康の首が晒された四条河原で斬首。
伊達政宗、黒田長政らは自害。長宗我部盛親は改易こそ免れたが、関ヶ原で加増されていた四国の領地を全没収された上、
秀頼側に味方して越中へ加増・転封された津軽為信の旧津軽領へと転封された。
もう一人の首謀者・高台院を高野山に配流した淀君たちは、その後、元服した秀頼を征夷大将軍に就任させる。
五大老制度は維持されることとなり、宇喜多秀家、上杉景勝の他、島津忠恒、真田昌幸、佐竹義宣が新たに就任。
三代目将軍・秀光が大名と幕政の切り離しに着手するまでの約六十年間、その体制は続けられた。
(※ちなみに関ヶ原で家康が討死し、嫡男・秀忠、忠吉も斬首されて没落した徳川家だが、
秀吉と縁が深く父・家康から疎んじられていた秀康だけは結城家をそのまま相続することで許されている。
秀秋と秀頼の争いで秀頼を支持した秀康は、その功で結城十万石から旧毛利領の出雲伯耆二十四万石に転封された。
幼子だった忠輝も岳父の伊達家に預けられて生き延びているが、再度の戦乱では政宗と運命を共にしている
353 :名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/04(月) 00:33:56 ID:X48bzTbM
>>340
素敵な夢をみたw
GJ!